鹿の血を飲む猟師に憧れる[498/1000]

言葉を綴ることは、そう難しいことではない。流れる血が自ずと言葉になるのだから。

しかし、血が流れないときは、言葉を綴ることが途端にできなくなる。こういう日は、森に寝そべって天を仰ぐも、風に揺られる大木も、吹き落とされる葉っぱも、味気なくしかうつらないものだ。

 

ただぼんやりと眺めていることしかできないが、いつまで経っても、あの血の気の渇いた不快感は背中から去ってはくれない。何かを失ってしまったような寂しさが、べったりと心に染みついた。

ああ、血が欲しい。血に飢えている。血を飲ませてくれと、魂が悶え苦しんでいるようだ。

 

***

 

昨日読んだ、「ぼくは猟師になった」という本に、一日経った今も心に残っていることは、「鹿の血を飲む」話だった。獲物をしとめたとき、肉が臭くならないように血抜きをするが、今は血抜きをしても、ほとんど血は捨ててしまうらしい。だが、鹿の血には栄養が豊富にあり、昔は獲物をしとめたら一番に血を飲んでいたらしい。

私はこの話に山の男の精神を強く感じた。この際、正直に打ち明けてしまえば、私は猟師の生き方に心底惹かれている。うまく言葉にならないが、こんなに胸が高ぶるのは、ここ十年に一度あるかないかというほどである。しかし、今はこの感情を言葉にするのは控えておこう。言葉にせぬまま、己のうちに高ぶらせておきたいのだ。

 

隠遁生活をしている月光の森にも、葉が落ち始めた。凍てつく風と世界を銀色に染める雪が、少しずつ近づいてくる。一年で最も気高き季節、冬がやってくる。最も過酷で、最も美しく、最も孤独で、最も麗しい季節である。

ああ、冬よ。私は準備ができている。いつでもかかってくるがいい。今年も己を殺しにこい。

 

【書物の海 #28】死ぬことと見つけたり, 隆慶一郎

細かい刻み目が入れてあった。獲物の数に相違いなかった。三十は充分ある。なんとなくいやあな気がした。

「反対側にもあるぞ」

金作が酔ったように云う。表側には五十を越える刻みがあった。

<殺しに酔うとる>

鉄砲の名手には間々あることだと云う。獲物を殺すことに異常な恍惚感を味わうようになるのだ。

「そうなったら、人間は終わりだ。気をつけろ」

そう父が戒めたのを思い出した。

 

猟師の精神性に触れたかったと昨日書いたが、偶然にも、本著でそれにぶつかった。至近距離で、クマでもイノシシでも遭遇するのでなければ、人間は一方的に獣を撃つことになる。

その道筋に到達するまでに、人間と動物の知恵比べがあるが、鉄砲という文明の力を持つ今日では、一歩まちがえれば、殺戮と化す。猟師も仕事となれば、安全に、安定した収穫が求められるが、生き方としての猟師と、仕事としての猟師はまったく別物だろう。

「殺しに酔うたら人間は終わり」

ああ、血に飢えているなどと、私はつい言葉にしたが、この言葉は戒めとして持っておこう。私を知らない人間がこれを読んだら、よっぽどバイオレンスな危険人物に思われるかもしれないが、私は単に、人間から血が失われて、動物と等しくなることを怖れるだけの、平凡な人間である。

 

2023.10.31

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