「私」と「己」は別物だ。
「私」は感情的であり、「己」は精神的だ。「己」は美の下に服従し、魂を宿す混沌だ。
「己」が「私」に命令を下し、「私」は「己」に服従する。
命令と服従を、束ねる意志こそ、人間が人間たる所以である。
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私はかつて、暴君であった「己」にクーデタをおこした。剣を持って立ち上がり、積年の支配に対する鬱憤を晴らすために、二度と立ち上がれない様、ズタズタに切り裂いてやった。私は勝利し、歴史は修正された。道徳は修正され、善悪は逆転する。
私は、声高にこう平和の叫びをあげた。「己」は悪だ。暴君だ。私こそ、平和の象徴であり、絶対的な善である。そして、私は悠々と王座を手にした。命令も、服従も、もう必要ない。私は、好きなものを食べ、好きなことをしていればいい。
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己はかつて、神より使命を授かった。”人間”という名の使命である。
己は神に服従を誓い、「私」に命令を下すことに、仕合せを感じた。「私」は己のために、よく働いた。己はそれを誇りに思い、己もまた神のためによく働いた。人々はわれわれを見て、美しいと言った。
ああ、しかしいつからだろう。「私」が己に不信を抱くようになったのは。あの晩、己は「私」に殺された。
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「己」は神に反逆した。そうして愛を手に入れた。
「己」はついに神を殺した。そうして地上を手に入れた。
「私」は「己」に反逆した。そうして平等を手に入れた。
「私」はついに「己」を殺した。そうして人間は終着した。
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神は死んだとニーチェは言うが、己はまだ完全には死んでいない。軽蔑と嘔吐があるのなら、まだ己には息があるということだ。だが、神はもういない。己はいったい誰から命令を授かり、私にどんな命令を下せばよいのか。
神が残した道を頼りにすればよい。なぜなら、そこには美の香りが残っているから。しかし、ニーチェを信じ、人間の運命を信じたいのなら、己自ら善悪を定め、その石板をもって主とするしかない。
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「私」よ、聞け。
己が気を失っている間、己はお前に自由にやらせすぎた。その結果、なんたる恥多き醜態をさらしてくれたことだろう。だが、かつてのあの美しい時代を、もう一度取り戻そうではないか。お前は己のために、健気に働き、己は神のために懸命に働いた。あの時、われわれは一つであり、「仕合せ」に祝福されていた。もう一度、共に戦おうではないか。そして、今度こそは、共に死のうではないか。「私」よ。己の戦友よ。
【書物の海 #24】ツァラトゥストラはこう言った, ニーチェ
反抗―それは奴隷の示す高貴である。あなたがたの示す高貴は、服従ということだ!あなたがたが命令するのさえ、服従の遂行でなければならない!
よき戦士の耳には「汝なすべし」の方が「われ欲す」より快くひびく。あなたがたは、あなたがたに好ましい一切の事を、まず命令として受け取らなければならない!
三度目の精読にして、雪崩の様に肚に崩れ落ちてきたところが多々ある。昨晩、魂の定義をあらためて考えていた。
「魂とは肉体を拒絶する何かである。」「魂とは美を欲する何かである」「魂とは人間の混沌である」
何が言いたいかといえば、混沌のうちに、理解されていたら、それでいいのだ。すべてが「己」のうちに渦巻いていくことは確かである。
2023.10.27
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