「許婚者のいる美貌の女性ロッテを恋したウェルテルは、遂げられぬ恋であることを知って、苦悩の果てに自殺する。」
ゲーテの「若きウェルテルの悩み」が出版された当時、若者の間で自殺が流行したという。まさに、命がけ、死身の恋、情熱の挺身である。この何日かは、ずっと恋と情熱に考えを巡らせている。恋などとは言葉にするのは、破廉恥であろうし、言葉にするものでもないだろうと踏みとどまるけれども。
太宰治の「斜陽」で、「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」と、登場人物のかず子は挺身の恋に身を捧ぐる。凄まじい。生を率直に立てたいと願うのなら、恋を情熱から取り上げることはできないし、快楽を得るにしても安逸に沈滞することなく、その一方に、常に恋と情熱の可能性を残しておきたいものだ。また、安逸に沈滞しない快楽こそ、昨日最後に書き添えた、ショーンのような豪快で力のある快楽だと思う。
明日、死ぬと分かって志願した特攻隊員のように、生々しく狂気的で、烈しく、怖ろしく、凄惨で、これを為そうと思えば、逆説的にはなるけれど、恋に気狂いすることのように思える。恋とは、宇宙より流れ入る、人間を「狂わす」ほど肉体を超越した力だろうか。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
マタイの福音書 10章37節
恋と情熱は、安逸に背を向ける。安逸を手に入れるのは簡単であるが、手放すことは何十倍も難しい。金がなくて苦しむという人間を私は知らない。金がないという人間は、手放すことができず、苦しんでいるように見える。生きるに「必要」なだけの金などたかが知れている。これは、私が身をもって言えることだ。
安逸に燻って、月日が経つうちに老いは増し、恋も情熱も、生活の沼に沈めてしまうのが事実だとしたら、無害を装う安価な快楽ほど、人間の脅威となるものはないように思われる。克己、情熱と恋に生きたじいちゃんばあちゃんは、後年になっても、その芳香をちゃんと残している。人生の最も甘い果実をつかもうと思うのなら、年齢を理由に「若さ」をあきらめちゃならん。
【書物の海 #17】若きウェルテルの悩み, ゲーテ
つまり人間の運命とは、自分の分に堪え、自分の杯を飲みほすことではないか。―そうしてこの杯を天の神が人間の身であったときに苦すぎると思ったのなら、ぼくが空意地を張って、うまそうな顔をしてみせるにはあたるまい。ぼくの全存在が有と無の間に打ち震え、過去が稲妻のように未来の暗い深淵の上に光を投げ、身辺のいっさいが没落し、ぼくと一緒に世界がくずれて行くというおそるべき瞬間に、どうしてぼくが恥ずかしがる必要があろう。―
「わが神、わが神、なんぞわれを捨てたまいしや」と、むなしく上にあがろうとしてもがく力の深みから歯ぎしりするのが、自分の中へ追いつめられ自分を見失いとめどなく墜落して行く人間の、そんな場合の声ではあるまいか。
2023.10.20
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