若者の性は最高の表現をとるときに情熱になり、おとなの性は最高の表現をとるときに快楽になるということができよう。しかし、現代の若者は、性を情熱から解放しようとしているのである。快楽には金がかかり、これは若者には不可能である。情熱には一文の金もかからないが、命をかける覚悟がなくてはならない。
三島由紀夫「若きサムライのために」
ファウストはなぜ、この世の最高の快楽を手に入れようとしたか。崇高な精神は、最高の快楽を欲し、安逸を退けるものだろうか。情熱にとっての性の理想を月光にみる。性を情熱から解放したとき、情熱はその容れ物を失い、雲散霧消してしまうのだ。
情熱は金を必要としない。家も車も仕事も資産もないほうが、命を捧げる覚悟は生まれやすい。これは、私自身、持ち金が底を尽きてから、より一層感じることだ。また、そういう男を一人知っている。たしかにあの男は情熱的だ。人生という「女」に身を捧げている。いかにも、人生とは広義の意味で女だ。人生の試練とは女の魅惑に屈しないことだ。
ある程度の物質で、だれでも安逸な暮らしができる今日である。世界が物質的に豊かになるにつれ、情熱が死んでいく運命にあるとしたら、そんな悲しいことはない。
つい最近、バッテリーが壊れ、電気のない生活、つまりネットから完全に切り離された生活が強いられている。不便で苦痛であるが、これは情熱にとっては願ってもないチャンスかもしれない。復讐のチャンス。物質文明への、時代への復讐のチャンス。
<追記>
アメリカ人の大親友であるショーンという男のことを思い出したので書き添えておきたい。彼は私がアメリカのアイダホ州に留学したときの、唯一のアメリカ人の友人だった。
彼は「豪快な」快楽主義者といういい方が非常に相応しく、彼の金の使い方には、惚れ惚れする清々しさがあった。公園のハト(アヒル?)にエサをやりに行こうと話をして、手包みくらいのパン粉でも持っていくのかと思いきや、近くのホームセンターに立ち寄ると10kgくらいのエサ(日本の肥料の袋よりもふたまわりくらい大きい)を担いでやってきた。
われわれは、パラパラと上品にパン粉を与える代わりに、エサをわしづかみにして、豪快に気前よく鳥たちに投げ与えた。エサはどれだけやっても尽きる気配がないから、とにかく豪快に豪快に投げ与えつづけた。
別の機会には、チキンウィッグを買ったから家に来い、というので、遊びに行ってみると、激辛のものからハチミツの効いた甘いものまで、様々のフレーバーのチキンが机の上に大量に山積みされていた。われわれは音楽を大音量で聴きながら、豪快にチキンを愉しんだ。
こうしたエピソードは、ごく一部であるが、ショーンの快楽主義はいつもすがすがしく、後々みじめになることもいっさいなく、人を不幸にすることもなく、人を心から愉しませるものだった。うまく言葉にできないが、今回の主題の具体例として、通ずるところがあると直感するので、書き添えておく。
快楽、それも清々しいほど豪快な快楽には、安逸と一線を画するものがある。
【書物の海 #16】三島由紀夫「若きサムライのために」
端的に言えば、戦争や開拓や冒険に満ちていない社会、そういう時代が長く続く間には、芸術に求められるものは、与える芸術のまどるっこさに満足できなくなって、たちまち芸術をはみ出してしまう。それが過激な政治行為になることは、当然である。人々は、よく整えられた社会にたちまち飽き、現状に飽き、戦争中はあれほどあこがれていたネオンのはなやかな大都会の不毛な地獄に、いまでは嘔吐を催すような嫌悪を抱き、あらゆる確立された秩序をきらって、よごれた廃墟を愛するようになるのである。
泰平の世は70年となった。東大全共闘のような過激な政治行為は、近年見ない。満たすことのできない死の衝動も、その発露にはエネルギーがいる。エネルギーは電脳空間に吸われつづけ、現実は「生」に満ち、その重さも軽くなるばかりだ。そこに死を投げ込むのが芸術の役割だとしたら、芸術こそ、現代人が真に欲しているものだ。とりわけ、日本人には、宗教を信じられる土壌がない。
今日のまだるっこい芸術に満足できないのなら、なおさら、かつての壮絶な時代に生まれた小説にたどり着くのは、説明のつく生理行動だろう。死の衝動は美しい形を取ろうものなら、信仰に通ずると思う。死の衝動を抱えながらも、信仰をまっこうから否定してかかれば、われわれの衝動の暗い部分は、ほんとうに行き場を失ってしまう。
2023.10.19
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