千夜を越えて。[1000/1000]

神を求めるものは山へゆき、魂を求めるものは砂漠へゆく。

千日前の私は海にいた。新潟は柿崎にある、夕陽が淡く沈むやさしい海である。二年に及ぶ無気力な衰弱状態をやっとの力で振りきり、カビの生えた部屋で焦がれつづけた大海原に逃れてきたのである。2020年にオーストラリア大陸をヒッチハイクで横断し、ゴールドコーストから雄大な朝日を望んで以来、虚無の槌に粉々に砕かれた精神は、それでも海に救いを求めたのである。

 

脆弱であることには変わりなく、いつ鬱がぶり返すかも分からぬ状態だった。制御不能な心を繁忙のなかへ押し込んでしまおうと、この千日の手記は始まった。病の根源を問いながらも、鬱々とした心を多忙の底へ葬らんとする態度は「対症療法」に近いものである。が、今日の世の中を見渡して、「病人」でないといえる者は、果たしてどれだけいるだろう?時代と国家の迷妄に彷徨いつづけ、痛々しく窶れる魂に遭遇するたび、病は迷妄と堕落によって生じる宿命であり、病を真に克服することが魂を救済する第一歩に思われてくる。

 

そうした意味で、私の千日の歩みは、脆弱な肉体が生んだ「闘病記」であり、時代に埋もれた魂の「奮闘記」であった。生命や魂、精神的な事柄を取り扱うことが多かったのは、衰弱した心に強烈なメスを差し込み、溜まった膿を出して楽になるためであったし、身が張り裂けそうになる熾烈な言葉を紡いだのはくだらぬ自尊心のためでなく、病に追いやられた魂の現世に対する荒々しい反動であった。

 

千夜を越えたいま、病が治癒したかを問われれば、実のところ分からない。この千日の間で家を持たなかった放浪者は、森に小さな家をつくった。生活の土台を築きながら畑で汗を流し日銭を稼ぐようになった。文明から距離を置いた不便で素朴な暮らしぶりは、肉体を本来あるところ、自然の一部に還したように思われる。しかし、真に病を克服した状態は愛に等しいものを言うのだから、この千日投稿を終えた後の行動を観察して、はじめて治癒を知ることができるだろう。無論、私はそこへ行くつもりである。

 

この千日の間で死生観にも甚だしい変動があった。全部を振り返ることはとてもかなわないが、543日目の「追憶の魂」は、ヒューマニズムに彷徨する魂の葛藤と、恥だらけの半生を総括した詩だったといえる。千日全体を通しても、この隠遁期間(482日目~553日目)に綴った断片は、特に記憶に美しく刻まれている。喧噪な社会と電脳空間から完全に切り離された生身の時間では、怠惰な心すら無邪気さのために赦されるようだった。

「追憶の魂 [543/1000]」

解放を掲げた戦いは  既に灰塵の上にあり
虚空を捕らえる咆哮を  大砂漠が嘲笑う

黄金が眠る海でさえ  海神は沈黙し
夜山に沈む空身の果てに  涙堕ちれば 堕ちる人生

 

悪意の月光酔い痴れば  故郷の風が頬を撫でる
枯れ萎れた魂よ  野性の鹿血を喉に汲め

諏訪湖に燃ゆる宙核を  巨大な槍となり突き裂け
同情に滅びた神の墓  慟哭する英霊の影

 

虚偽の鎧は銭と朽ち 貉の母啼く森に死す
揺らめく炎 服する書物  幽居 霊薬に満つ

無気力の根は断ち切れた  サタンよ孤独の戦友となれ
悪意の奥底も見極めた  慈愛よ焔を心得よ

砂漠に斃れる旅人の  地に轟く詩となれ

 

血涙 溢るる放浪の  赦されよ 赦さぬを
厭世 泥這い 身は窶れ  幸福 道化に楯を突く

己がなけなし 分別の  胸を叩けよ 草枕
深山幽谷 寂漠を  破るる春が胸を汲む

生死一閃まどろみの  生命を叩く無邪気さよ
ああ美わしき魂よ  『愛と希望を忘れるな』

体と心と魂の三位一体こそ健康の本質に思われる。一つ欠いて、堕落する。私自身、堕落を認めたところから、人生がはじまったように思う。「俺達は清らかな光の発見に志す身ではないのか」とランボオは言った。私もまた暗く孤独な谷底に堕ちて、はじめて美しく光る星の存在を認識できたのだった。星に焦がれて泥を食う。重力の魔に何度も掻き下ろされ、屈辱のあまり自棄になりながらも、なけなしの分別を頼りに雄々しき大地を踏みしめていくのである。地位も名誉も金もないしがない肉体労働者にさえ、よく陽に灼けた頬の上を熱い涙が流れ落ちるのである。

 

何はともあれ、千日投稿は終わりを迎えた。千日目の今日が、春の吉兆を感じさせてくれる、朗らかな日和であることを幸運に思う。明日からもう書かなくていいのだと思うと、何だか寂しい気持ちになる。独りきりで千日の舟を漕いでいたようで、実は後ろを振り向けば、心ある友に支えられていたように思う。友よ、数少ない読者よ、ここまで共にしたことを心から幸せに思う。有難う。またいつか、共に。ではお元気で。

 

2025.3.17