人間、汗水たらして油まみれになって、地道に働くことの尊さに気づけるかどうかよ。
こう言って、妹さくらの説教に胸を打たれた寅さんは、堅気になることを誓う。寅さんは豆腐屋で働き始め、文字どおり汗水たらして油まみれになり、今度こそ地道に生きていけるのだと、自分を期待した。しかし、豆腐屋の娘に失恋して、置手紙を残して豆腐屋を去ることになる。やっぱり元通りの職なしとなった。男は、顔で笑って腹で泣く。悲哀を全身に漂わせ、再び旅に出ようとする寅さんの背中を、妹さくらが呼びとめる。寅さんはさくらにこう言う。
「やっぱり地道な暮らしは無理だったよ、さくら。おれ、昔から馬鹿だったもんなぁ。」
寅さんは、自己救済と生命燃焼の話だと思っていたけれど、堕落する人間の美しさを描いた話でもあるのだと思った。坂口安吾は「堕落論」で、美しいものが美しいままで命を終えるのは未完の美だと言った。未完の美は美ではなく、堕落して地獄を渡り歩くことそれ自体が美でありうるとき、初めて美と呼べると言った。それが寅さんなのだと思う。
社会は回転していて、遠心力が働いているのではないだろうか。社会の回転についていけなくなった人間は、徐々に中心から外側へと追い出されて、最後には回転そのものから弾き出される。今日、社会から弾かれた人間は、”堕落”ではなく”不適合”と言われることが多い。堕落というと、堕ちた人間というニュアンスが強くなるから、”あくまで合わないだけで堕ちてはいない”というヒューマニズムの変なプライドが生んだ言葉なのだと思う。あとは、社会に不適合になった方が、地道に働く人間よりもお金を稼げる事例も生まれるようになって、回転から弾き出された人間は不適合なだけであって、堕ちてはいないと思われるようになった。
寅さんのような人間美は、堕落から生まれることはあっても、不適合から生まれることはない。不適合から生まれるのは、自分は社会に合わないだけだという受容と自己愛が関の山。ここには見苦しさはあっても美しさはない。人間美は、恥の観念から生まれる美しさだと思う。自分が堕落した駄目な人間であるという認識がなければ恥は生まれない。
恥じるから、もう一度回転の中に飛び込もうとする。しかし、一度回転から弾かれた人間にとって、再び回転中に飛び込むことは簡単ではなく、哀しくも何度も弾き出される。奮闘と努力の甲斐もなく、こうして今日も涙の陽が落ちるのだ。
最近、毎日のように思うのは、道徳がなくなれば、恥の観念も失われ、人間の美しさもなくなるということ。堕落した人間がいなくなって、すべての人間が生きているだけで素晴らしい世界になる。いい世界に聞こえるけど、薄っぺらさも感じてしまう。私はこの世界にどっぷり浸かっている人間だけれど、やっぱり人間として生まれたからには、人間の本当の美というものを問題としたいし、それには道徳も堕落も恥も必要とする。
そして、毎日のように道徳を書き連ねる自分を私は恥じているのだし、いい加減辟易している。こんな猿芝居、本当に意味があるのかと思いながら、これしか書けない自分に295日目の涙を流す。あと705日、たどり着けるか!?
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