好き勝手フラフラ生きてる人間が偉いのか、地道にコツコツ働いてる人間が偉いのか。当然、地道にコツコツ働いている人間が偉いにきまってる。
こうはっきりと言って、一所懸命に働く人たちを茶化しに行った寅さんを、妹のさくらが目に涙を浮かべながら説教する。説教をするさくらも、説教をされる寅さんも、苦しい時間だったに違いない。
一度でも仕事をバックレたことのある人間は、仕事をバックレた後の罪悪感と、同時に沸き起こる清々しい爽快感をおぼえたことだろう。これは生命が蘇る感覚である。時効だから言えるけれど、私にもそんな恥ずべき過去が山のようにある。
人間は生命を生かさねばならない。生命が文明に飲まれて死にかける時、手っ取り早く生命を蘇らせるのは、堕落することだと思う。上に突き抜ける力がない者は、文明社会から弾かれる形で、下に突き抜けるしかない。仕事をやめることは、褒められたことではないと心は知っているから、罪の意識を感じて、絶望と不安に苛まれる。しかし、それでも生命が蘇る感覚には正直にならざるをえず、我々はこの解放感に、生命の自由と希望をみつけるのだ。
嫌なことでも、地道にコツコツと仕事をする人間が偉いに決まってる。仕事を辞めて働かないことは堕落である。しかし、坂口安吾が「堕落論」で言うように、人間の堕落は起こってしまうものだ。(堕落しても、人間は堕落しきるほど強くはなく、結局、武士道に頼らざるをえないと言う。)
つまり、堕落してからが人間生命の本当のスタートであり勝負である、と私は思う。一度下に突き抜けて、生命を自覚し、生命の自覚をもって、高みへ這い上がっていく。上に突き抜ける力のない人間は、こうして堕落を経由して、生命を救済するしかないのだと思う。堕ちるところまで堕ちるのは苦しいが、そこからようやく、自分の武士道を見つけに、生命は上昇に向かって燃え始める。
上に突き抜ける人間は高潔で気高い。これがかつての武士や騎士のように、尊敬に値する存在であることは言うまでもない。
下に突き抜ける人間は不幸だが、恥の中に生命の自覚は促される。この堕落こそ、生命の本当のスタートであり勝負である。
中に留まる人間は、満ち足りていて、不自由もなく幸せだ。しかし、毎日は繰り返され、生きている実感というものはどこか得がたいかもしれない。
私は寅さんが大好きだ。寅さんの話は、自己救済と、堕落した人間の生命燃焼の話だと思う。
一人前に働きもせず、所帯も持たず、旅ガラスとして、堕落して生きている寅さんは、生命的に下に突き抜けている。そんな寅さんは、妹が喜んでくれるような偉い兄貴になりたいと、なんとか立派に生きようと努める。しかし、いつも空回りして、やっぱり堕落してしまうのだ。下に突き抜けて堕落した人間は、寅さんをみるといい。きっと元気になる。
俺がいたんじゃ お嫁にゃ行けぬ
わかっちゃいるんだ 妹よ
いつかお前の喜ぶような 偉い兄貴になりたくて
奮闘努力の甲斐もなく
今日も涙の 今日も涙の陽が落ちる 陽が落ちる
渥美清「男はつらいよ」
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