堕ちることについて、日々想うなかで、漠然としたひとつの理想のようなものが生まれた。それは、聖書を抱えながら、奈落の闇に堕ちていくというものであった。必ず聖書を携えてなければならない。聖書でなく、葉隠や般若心経でもいいが、必ず自己にとっての聖典であり、神との関係を築くものでなければならない。そして最後には奈落の底で聖書を燃やす。
例えばこれは、「ショーシャンクの空に」に出てくるアンディのような存在かもしれない。アンディは、妻とその愛人を射殺したという無罪の罪を着せられ刑務所に入れられるが、何十年という長い月日をかけて、看守の目が届かない夜に、小さなロックハンマーで壁を削り、脱獄を果たす。アンディは、署長に好きな聖句をたずねられたとき、聖書を閉じたまま、マルコ13章35節を暗唱する。
「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。」
脱獄に用いたロックハンマーはこの聖書の中身をくりぬいて隠されていた。アンディに信仰があったか分からない。かつては熱心なキリスト教徒であったにちがいないが、無罪の罪を着せられたとき、神などくそくらえと思ったかもしれない。くりぬかれた聖書からは、神をも地獄に道連れにする覚悟を感じる。アンディにとって、脱獄悪は神への復讐だったかもしれない。脱獄を進める中、いつも自己と神との孤独な対決だけがあった。監獄内の親友でさえ、数十年間、アンディの脱獄のことを知らなかった。どうして神は私をこのような目にあわせるのか。この哀しみと悔しさと憤りが神に衝突し、アンディは従順な羊の皮を破り獰猛な狼となった。悪は神との関係のうちに自然に生まれたものにすぎず、自己と神との関係のうちに完結する。
一方、監獄署長も囚人に聖書を配るくらい聖書が好きな人間だったが、監獄内では権力に溺れ、殺人と横領の悪を重ねる人間だった。この男が好きな聖句は、ヨハネ 8章12節「イエスは再び言われた。わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」だった。署長の悪行は、脱獄したアンディが持ち去った証拠文書によってすべて暴かれる。罪が暴かれ、警察に押し寄せられた署長は、最後にはピストル自殺をする。天罰がくだされたようだった。天罰がくだるとは、自己と神との関係におけるツケが清算されることを言う。自分のためになされる悪ほど愚劣なものはなく、そうした悪を神は見逃さない。ここでもやはり、すべては自己と神との関係のうちに完結する。
アンディは脱獄後、どこか遠くの海、青い空のした、真っ白な砂浜で、ボートを磨いている。何もかも、すべてから解放され、自由となった。神との因縁は燃え尽き、同時に聖書も燃え尽きた。アンディの中には神はまだ存在すると思う。聖書という形式を取らない。坂口安吾のいうような自己が編み出した武士道のようなものかもしれず、ここにおける自己は羊であり狼かもしれない。
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