顔がよく分からない、恋人らしき女性と空を飛んでいる夢を見た。空は途中で光と闇に分断されている。女性を光に押し込むように残し、自分は闇に堕ちることを選んだ。深い闇に飲み込まれるとき、自己の魂の何かが無性に満たされる感覚を得て、夢から覚めた。
大体の場合、言葉を綴ることで、心は呪縛から自由になる。しかしどういう訳か、今日は言葉を綴ることが怖ろしい。言葉を綴るほど罪に縛られ、言葉を綴りながら罪を贖おうとしているようだ。何が自分を苦しめるのか、自分でも分かっていない。善悪が幾重にも重なり合って訳が分からなくなっていて、もう自己の存在すべてを悪だと決めつけにかかろうとしている。しかし、本当に己を惑わすのは、堕ちるところまで堕ちていないこと、堕ちきる強さがないことが根源であると知っている。所詮は善人の端くれに過ぎないのだろう。本当に堕ちた人間は、今頃、深い孤独のなか、冷たい牢獄で眠りについている。罪の意識に耐えかねて、この世に別れを告げたくも、愛する人のために懲役にあたらなければならない。
この世は善人ばかりだと錯覚するのは、悪が社会から抹殺されるからだ。道徳を破れば悪であり、法に触れれば裁かれる。映画も本もネットも、悪を推奨するものは当然規制され、社会は安全と安心のもとに、秩序ある生活を道徳の内側に築き上げる。構造上、見えないだけで、堕落した人間は世の中にごまんと存在し、深い孤独に死にそうになっている。たまに悪を垣間見るのは、なにか事件の報道を見るときで、私は家なしをしている頃くらいから、自分も向こう側の人間だと感じるようになっていた。社会が堕落した人間を責めれば、自分が責められているようだった。
まともな人間の道を踏み外している。善人だった頃、綴っていた言葉の大半は道徳だった。道徳は綺麗ごとになりやすい。「感謝しなければならない」「頑張らなければならない」「受け入れなければならない」「愛さなければならない」「勇気を出さなければならない」といった立派な文句は、時に人を感動させる。今でもたまに、長年身体に染みついた道徳が言葉に出そうになるが、言葉に出す道徳ほど嘘くさいものはない。道徳を説くのは坊さんの役目だ。しかし、道徳は立派なことには違いないので、当時はよく人に読まれ共感された。感謝などくそくらえと吐きこぼす言葉に、共感などされるわけにはいかない。
どこまで堕ちるかを、運命に試されている。ここを限界とするのか。それともまだ堕ちるのか。堕ちた分だけつまらない人間になっていくが、堕ちた分だけ生命が蘇る感覚を得る。どこまで堕ちるのか。どこまで生きるのか。
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