かたちによってわたしを見、
声によってわたしを求めるものは、
まちがった努力にふけるもの、
かの人たちは、わたしを見ないのだ。
目ざめた人々は、法によって見られるべきだ。
もろもろの師たちは、法を身とするものだから。
そして法の本質は、知られない。
知ろうとしても、知られない。
中村元, 紀野一義「般若心経 金剛般若経」, 岩波文庫
金剛般若経のこの詩に出会ってから、「法を身とする」ことがどういうことかずっと問うてきた。天に仕える、自分を制する、命よりも大切なものに生きる、自分を神の座から引きずり下ろす、と自分なりの言葉に置き換えてみるも、頭では理解できても身体に落とし込めない不完全さを感じていた。
昨夕、瞑想しているとき、呼吸こそが身体に法を落とし込む実践手段だと認識した。あくまで私の感覚の話になる。
そもそも、なぜ瞑想を呼吸で行うのかというと、呼吸が意識と無意識を繋ぐ、人間唯一の営みだからだ。意識をしていなくても、我々の呼吸が止まることはなく、一方意識をすれば、呼吸を止めることも早めることもゆっくりにすることもできる。心臓を止めようと思っても止めることはできないように、これは呼吸だけに許された特別な性質だ。意識的に無意識の領域に干渉できる唯一の手段であるともいえる。
これを踏まえ、法を身とする実践手段は、法の息遣いを身体で覚えることだと思う。法の呼吸は、どんな速さで、どんな温度で、どんな色で、どんな厚みで、どんな意志を含んでいるか。その息遣いをおぼえたとき、息を吸って、息を吐く度に、呼吸に宿った魂が自己に練り込まれていく。
どんな息遣いかを知るには、対象に恋をして、とにかく知ろうとする必要がある。聖書にしても、葉隠にしても、武士道にしても、般若心経にしても、本がボロボロになるほどに、読み込んで読み込んで、読み込まなければ、呼吸は見えてこないものだと思う。
(金剛般若経は「知ろうとしても知られない」といった。これは知ったつもりになれば、恋は朽ち、傲慢さが生まれ、自分が神となり、法を身とすることはできないことを言っているのだと思う)
かつて魂(法)に生きた、過去の偉人を知ることは、実際的なヒントになる。なぜなら彼らは私たちと同じ、現世的な肉体があって、呼吸をしていたからだ。昨夕の瞑想で、葉隠に生きた人間の息遣いをできるかぎり身体で知ろうとした。そして、人によって呼吸の質が異なることを知った。穏やかな呼吸をする人間もあれば、かぎりなく無色透明な呼吸をする人間もいる。今の時点で答えを出すことは時期尚早だと思うが、この違いこそが法を身とする人間の個性だと感じる。
聖典を読み込むことでそこに宿る魂を知ろうとするように、歴史に名を遺す人物がどんな息遣いで生きていたかを知ることは、実際的な助けになる。純粋な魂を宿した人間の呼吸には、個性が加わるがその息遣いを辿って魂にぶつかることはできると思うのだ。これは今後、どんな本を読む上でも、大切な心構えとなる。
あなたの呼吸を感じさせてほしい、とは恋の純粋な問いだと思う。今日においても、相手の呼吸を知ろうとすることが、一番その人を理解できるんじゃないかな。法を身とする実践手段は、法の息遣いを身体で覚えること。そこに生きた人間の呼吸を知ろうとすること。
日本人の感覚になるけど、やっぱり世界は恋でできていると思う。
聖典を読み込むことでそこに宿る魂を知ろうとするように、歴史に名を遺す人物がどんな息遣いで生きていたかを知ることは、法を身とする実際的な助けになる。純粋な魂を宿した人間の呼吸には、個性が加わるがその息遣いを辿って魂にぶつかることはできると思うのだ。https://t.co/FQPw4zsNep
— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) December 11, 2022
精神修養 #86 (2h/180h)
・死ねなかった自分は亡霊となって自己を彷徨いつづける。瞑想中に亡霊があらわれる。苦しくなって身体を動かして誤魔化せばエネルギーは分散される。身体を固定することで、亡霊は逃げ場を失い、捉えることができる。瞑想とは、亡霊とともに死ぬことでもある。
・死の衝動を抱えている。罠があるとすれば「死のう死のう」と思って我執が増されば、自分が大きくなりすぎて、結果的に死ねなくなってしまうこと。死のうと思って死ねたらいいが、ひたすら自分を制するがその道であると感じる。
・肉体は臆病で怠慢なものだ。この器を前提に魂が存在している以上、最低限の快楽も保証する必要があるかもしれない。
[夕の瞑想]
瞑想において天と繋がること、武士道の魂を身に宿すことは、すなわちその息遣いを身に宿すということ。葉隠に宿る息遣いを自己に同化させること。
呼吸は、意識と無意識を繋ぐ、唯一の対象。法を宿そうにも、魂と繋がりたくとも、実態がない以上、想像で補うことしかできなかった。そんな実態のないものを、肉体と結びつけるのが、呼吸だった。葉隠に宿る息遣いを感じるまで読み込むなら、瞑想においてその息遣いに集中することが、法を身に宿すことに繋がるのだと思う。
山本常朝は、どんな息遣いをしていたか。西郷隆盛はどんな息遣いをしていたか。それを感じる時、対象の魂と繋がる感覚をおぼえる。その領域に行くまでは、徹底的に読み込む必要があるだろう。葉隠も、聖書も、あらゆる座右書も、何度も読み込むことで、魂の息遣いが見えてくると思う。
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