人間が生まれ持った自我の膨張作用を、性悪説のいわれとするとするなら、人間が法を身に纏う力を持って生まれたことこそ、性善説のいわれではないか。
悪とは自分を肥やすこと、自分のために生きることであり、善とは自分を律すること、主に命を捧げて生きることではないか。
この性悪と性善のど真ん中を貫き、調和のとれた最も美しい形が、武士道や騎士道であったのではないか、と感じている。
法を失えば、人間は無法者となり悪に染まる。空論にすぎないけれど、個人が己の法を身に宿せば、国の法律はなくても、人間は善を生きられると思う。(個人の法が異なる以上、秩序が保たれるか分からない)
国の法よりも、己の法に従ったのが、仁義に生きたヤクザだったと思う。ヤクザものの映画に菅原文太主演の「仁義なき戦い」がある。題のとおり、金や権力や保身に目がくらんで仁義を失ったヤクザが、次々と裏切りや抗争を起こし人を殺していく。その中でも、主演の菅原文太は揺らぐことなく仁義を突き通す。その姿がどこまでも男らしくカッコイイのだ。
反社会的であるにもかかわらずヤクザものの映画が世で一定の賞賛を受けるのは、己の法を貫き通す、その一点に関しては、善の極地であるからではないだろうか。行為だけを見れば、人を殺せば国の法で裁かれ悪人となる。しかしそれが仁義を貫いたものであれば、心の何処かで美しい震えを感じてしまうのが、我々人間という存在なのだ。肉体的な懲罰を厭わず、親のために義を貫く純粋さには、行為上の善悪を超えた、魂の崇高さがある。
道徳も、国の法律も時代によって変わるが、宇宙の法と、崇高な魂の美しさは不変である。人間にはそれを感じられる器がある。それを感じられなくなれば、もはや人間ではなく動物となる。
国の法よりも自己の法を重んじる人間に純粋さを見つける。反社会的になれということではない。垂直的な生き方も、過ちを犯せば地獄まで落ちる。
自分の命に本当に責任を持つことの在り方を問うている。善良な国民という言葉は誇らしげ聞こえるが、自己から法が失われているのなら、誇りより驕りに近しいように思う。本当の誇りは、時代を超えても変わらない宇宙の法を身に纏う人間の純粋さにあるのだと思う。
宗教、武士道、騎士道をはじめとして、求道者が求めていたその先には、いつもこの純粋の一点があったのだ。
宇宙の法を重んじて生きる人間の純粋さに本当の誇りがある。
精神修養 #76 (2h/160h)
孤独を感じるときの瞑想ほど、仕合せの感覚に近くなる。
西郷隆盛は、法は宇宙のものであり自然であると言った。二宮尊徳は、自然は、その法にしたがう者には豊かに報いると言った。
季節の野菜を食べれば、身体を温めたり冷ましたりするように、自然には自然の掟が存在している。二宮尊徳は、自然の法を身に纏った人物であったように思う。
難しいことをする必要は何もないと思う。法は自然のものであるかぎり、目で見ることはできないが、この宇宙には確かに存在している。愛だの友情だのそれを肌で感じている。
[夕の瞑想]
苦しみを苦しみのままに。
悲しみを悲しみのままに。
寂しさを寂しさのままに。
どうこうできるものでも、どうこうしようとするものでもないんだよ。
苦しみを突き離そうとすることも、悲しみを振り切ろうとすることもなく、
ただその中に浸っていればよろしい。
自分が大事にしようとも、何事でもなかったかのように。
胸の窮屈なるままに、夕焼けの諏訪湖を、ただ見つめていればよろしい。
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