嵐のなかで命乞い。[421/1000]

嵐がきているようだが、不気味なほど静かである。森から木の葉の輝きは失われ、虫はどこかに身を隠している。小鳥の鳴き声もひとつもない。私も森の家づくりを中断し、嵐が過ぎるのを待つことにする。

日常に生じた生活の塵垢や、つまらない感情のしがらみもろとも風が吹き飛ばしてしまったようで、空気がいつも以上に澄んでいる。豪雨や突風はおそろしいが、その前触れのようにやってくる、雨の香りを含んだ南風には胸が高ぶるものがある。嵐によって呼吸をさまたげるすべての灰塵が洗い流されれば、もう一度、この透明な世界も愛しく思えるようになる。

 

晴れも雨も曇りも嵐も、すべての気候は自然界の調和にために、必要にして生じる。晴耕雨読という言葉があるように、天気にあわせた暮らしをしていれば、自ずと人間も整っていくことは古人の知恵だったにちがいない。晴れの日は、外で労働する。雨の日は、静かに本を読む。では、嵐の日は何をするか。

それは、祈ることであろう。荒ぶる海原や吹き荒れる森を見て、自然の畏れを思い出し、自己の傲慢を恥じ、打ち砕くためにあるのではないか。天井や窓にたたきつける雨音に身の危険を感じると、命の安全を乞う気持ちが芽生えて、無事であることを祈りたくなるのは決して偶然ではない。普段、めったに掘り起こさないそうした感情にくわを突き刺すことが、嵐が人間にもたらす調和の役割だったと思うのだ。

 

現代人に最後のものが欠けるのは、信仰が失われたことに由来するのであるが、現代建築によって安心と安全は保障され、祈りの必要がなくなったことも関係しているように思われる。科学の進歩は喜ばしいことであるが、その結果として、人間と自然との間に乖離が生じ始めたのかもしれない。私が森に家をつくるに至った経緯には、この乖離に耐えきれず、家なし生活を余儀なくしてきたという背景がある。非自然的な環境で生じる、自己の歪みに耐えうる強さが私にはいちじるしく欠けている。

ゆえに、目指す森の家は、生きるか死ぬかのものである。木々がきしむ音を立ててうなる中、倒木で下敷きにならないかと怖れ、もしくは家が壊れないかと怖れてでも、ここを生活の拠点としなければならなかったのである。

ひとまず、嵐が無事に過ぎることを静かに祈る。

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