私はこの世界の虚無を憎んでいるのかもしれない。
20代の半分をこの虚無を問うことに費やした、と書いたけれども、過去形ではなく、進行形である。
今もまだ、虚無を問うてるし、死ぬまで問い続ける宿敵にあるのかもしれないと思う。
虚無は、永遠を否定する。神や魂を否定して起こるものが虚無である。
これまで虚無に何度も潰されながら、30歳を前にして、ようやく神の問題に辿り着いた。
今は魂の救済と、魂を貫くことが試されている。
この際、まず有神論者か無神論者かをはっきりせねばならん!
私は特定の宗教を信仰しているわけではないけれど、万物を創造した未知なる混沌という大きな意味での神は信じている。物質的なエネルギーとしてではなく、宗教的にも神を信じたいという願望がある。なぜなら、物質的な理解は地上的な学問にすぎず、この生命をどう生きるかの問題に直結するのは、宇宙的な信仰だと思うからだ。
つまり、私の全ての関心は、この生命を燃やすことだけにあって、生命燃焼を阻害する虚無と、生命燃焼の核となる信仰の間で、私は天使と悪魔を戦わせている。
有難いことに、日本には武士道があるから、この偉大な精神文化を私は頼りにできる。武士道の実践はかなり厳しく、毎日のように跳ね返されてばかりだが、少なくとも虚無からの解放と、魂の救済という希望だけは得られる。文学や音楽もありがたい。厳しいものもあるが、虚無の悪魔とは戦える。
虚無の問題が、進行形だと冒頭で書いたように、気を抜けば、すぐに虚無に堕ちていく。虚無感に苛まれているときは、自分が神を裏切ったことと、悪魔の手に堕ちたことを認めなければならない。私のその度に、自分が卑劣な人間であることを目の当たりにする。
もし今、この瞬間、世界から娯楽と仕事が消えたら、虚無に絶望する人は大勢いると思う。時間と快楽に塗りつぶされているだけで、神のいない世界の根底には、虚無が静かに横たわり、空は虚無が覆っているのだと私は感じている。
これらを突き破っていきたいのだ。この時代に生まれた宿命を、一つ、ここに見出す。
虚無の向こうにある、宇宙の心だけに憧れている。ここに向かっていきたいのだ。
いつの日か、この虚無すらも愛せる日が来るのかな。
優しさだけがすべての解決の鍵ではない。
癒しの音楽だけでなく、厳しい音楽で元気になることもある。自分がこの厳しさを力に変えていける存在であることに気づくだけである。我々人間は、雄々しく連なるアルプスのように、勇ましくあれる存在であれることを忘れちゃならん。https://t.co/VabdzOFM2i— 内田知弥 (@tomtombread) March 31, 2023
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