信仰なしに生きられるほど、人間は強くないと思う。しかし、信仰をもつにも強くなければならない。人間は、弱い存在であることが、宿命であるようだ。だから、ドストエフスキーは、弱い人間の葛藤から生まれる、神はいるのか、神はいないのかという、永遠にかかわる問題を第一のテーマとした。私自身も、ここにしか関心がない。
信仰は聖なる力となって、世に蔓延る悪魔を一刀両断する。
悪魔によって現世の檻に閉じ込められれば、自己は破滅と虚無に向かう。死にたいという無力感に苛まれた言葉の裏側では、自己の聖域に悪魔が足を踏み入れようとしていて、、、いや、死にたいと一瞬でも思うたその時点で、既に悪魔は聖域に足を踏み入れ、恥辱を与えている。
いちばん純粋な部分が汚れることほど、悲しくて、悔しいことはない。聖域が神と繋がる唯一の場所であることを、我々は知っているからだ。身に纏うすべての衣服を脱ぎ捨て、生れたままの姿となって、人を愛し、祈りを捧げるような、静謐な場所が聖域である。
美しいものは汚れやすく、傷つきやすい。低俗な存在は、純粋を土足で汚すことに快感をおぼえる。人間は弱い存在であることが宿命だと、冒頭に書いたが、純粋なものを汚されることもまた宿命だ。なぜなら、心という物体をもって、物質界を生きる以上、世界との摩擦を避けることができないから。子供がはじめて傷ついて、世界の洗礼を受けるように、遅かれ早かれ、純粋なものを汚す運命にある。悲しく、悔しく、屈辱的な経験は避けられない。
純粋に死んでいった人間は、殉教者や殉死者となって、魂は永遠と結びつき、歴史に名を刻む。彼らに共通するのは、純粋な部分を汚さずに、純粋に死んでいったということではなく、むしろ純粋なものを人一倍汚され、尊厳を失っても、決して自己の純粋さを見失わなかったという点である。身ぐるみを剥がされ、全身がボロボロになりながらも、夜空に煌めく星を一人見上げて、涙を流したということである。
これが信仰である。弱き存在として、傷つく存在として宿命をもった我々にとって、もっとも尊敬するべき人物は、もっとも傷つけられ、もっとも汚され、それでも永遠と繋がって、戦いに勝ち、純粋を汚しても純粋に死んでいった人物である。
ボロボロとなって、フラフラになる我々を、天は笑ってくださるだろう。今宵もきっと空は晴れ、永遠へと誘う月が、すべての涙をすくってくれる。
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