死ぬときまで楽になれないのかな[202/1000]

死ぬときまで楽にはなれないのかな。

リラックスとは、楽をしたい人間が楽をするための口実として都合よく作り出した言葉である。楽をしたいといえば自分本位で怠け者な人間であるように聞こえるが、リラックスといえば罪の意識は生まれない。楽を求めてはいけないのかと言えばそんなことはなく、楽を求めない人間などいないと思う。肉体はいつも楽を欲していて、緊張から解放されることを望んでいる。今この瞬間もすべての緊張から解放されて、楽になりたがっている。肉体が焦がれる自由は緊張からの解放である。

 

魂は肉体の怠惰をゆるさないかのごとく、愛や友情を感じられるのはいつも、寝っ転がっている自分や臆病風に吹かれている自分を、行動に駆り立てられたときであった。反対に後悔が生まれるのは、寝っ転がったまま臆病風に吹かれて、行動できないときである。自分を抱き締めるとか、背中を押すとか、ケツを蹴り上げるとか、崖に突き落とすとか、状況によって様々な形で、自己の内に抱擁と衝突を生みながら、肉体か魂のどちらかを生かし、どちらかを死なせてきた。

肉体は現世に留まり楽をしようとする。魂は現世のみに留まらず肉体を死なせ自然の法に近づこうとする。ブッタやキリストが言った”目ざめている”とは、後者の状態を指したのではないだろうか。肉体を死なせ、魂を生かし、その純粋が悟りの境地ではないかと想像する。

 

「死ぬときまで楽になれないのかな」と吐息が漏れたのは肉体の声であった。中村天風の絶対積極の精神の対局にあるような、いかにも弱気な言葉であったが、これまでも心が後ろを向く度に死ぬまで楽になれないことを嘆く自分はいた。

引きこもり鬱の時は、身体は横になりっぱなしだったが、その場しのぎの気晴らしの日々は苦しかった。働き始めれば責任や重圧で身体は強張る。休みの日も規律に追われ、戦闘モードは完全には解除されない。

生涯困らないお金を手にして、南の島で悠々自適に暮らしている人に、憂いはあるのだろうか。誰もが一度は憧れるそんな境遇を想像してみるが、「肉体」があるかぎり、どこまで行っても憂いから逃れられないのではないかと感じている。憂いがないことも憂いにしてしまうのが不完全な肉体であるように思うのだ。

 

肉体は楽を求めるが、究極の楽は肉体が朽ちた後にしかないのだとしたらなんとも皮肉である。肉体が本当に焦がれるものを肉体は手に入れることができない。死ぬまで楽になれないと聞けば、弱気な自分は絶望に覆われる。強気な自分は上等だかかってこいと言う。前者は生を束縛し、後者は生を解放する。肉体が焦がれる自由が緊張からの解放だとすれば、魂が焦がれる自由とは、肉体を死なせ自然の法と一つになることではないか。肉体を授かった不完全な存在である我々は、心を積極性に置き続け、愛や友情に共に向かっていくことを望んでいるのではないか。

 

不意に人生にどうしようもなく絶望を感じる時は、ちょうど心の向きが後ろを向いてしまっただけである。暖かい春の日差しに花の香りを見つければ、人生とはなんて穏やかなものだろうと思うし、汗だくになりながら異国の風に吹かれていれば、人生とはなんてエキサイティングだろうと思う。心などその程度の気まぐれなものであるのだから、間に受けることなく、人間を生きる宿命を預かった者同士、鼓舞しあえればいいんじゃないかな。

人間一生誠に僅かなものなり、である。

 

精神修養 #113 (2h/233h)

相変わらず、呼吸は意識に埋もれ、身体も寒さに弱くなっている状態であるが、少し明るくなって小鳥がさえずりを始めると、不思議と呼吸にも集中できるようになる。一人だと埋もれる呼吸も、自然界の呼吸を感じれば見失わずにいられる。まだうまく言葉にできない。

集中できないのなら、空を見上げ、月や雲に呼吸を合わせ、木々の静かな呼吸を感じようとする。そうすれば、おのずと自分の呼吸にも意識は戻ってくる。自然は最高の師である。修行といえばひとりであるが、この宇宙に存在する我々は一人ではない。

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