ぼーっと1時間も2時間も夢想に耽ってしまうことがある。これは夢なのか、それとも欲望か。
昨日、弁えと欲望の違いをはっきりさせたかったのは、どこまでが夢でどこからが欲望なのか知りたかったからだった。
現時点での考えを先にまとめれば、夢は叶えた瞬間、地上的欲望になるのだと思う。夢は永遠の性質を帯びる以上、憧れと共にしか存在できないもので、夢は見ることや追うことはできても、叶えることは死ぬまでできない。
欲望がないと生きていけない、それはそうなのだけれど、欲望にも美しい部分と、恥を感じる部分の一線が存在するということだ。そしてこの一線が意味するものは、宇宙と地上の境界であり、永遠と現世の境であり、神を信じるか信じないかの一線であるのだと感じる。https://t.co/1d5ECwgBo8
— 内田知弥 (@tomtombread) April 15, 2023
夢には、永遠の憧れに向かって一直線に伸びていく宇宙の性質がある。青年時代に、友と夢を語り合った人はきっとおぼえているだろう。星空を見上げたり、海を眺めたりしながら、その心は遠い宇宙の憧れだけに向かって一直線に伸びていた。この永遠に向かうエネルギーの放射こそが、夢を夢にしてくれるものであって青春の本体なのだ。永遠に伸びるエネルギーの放射が道となり、この道を歩むかぎりは、何歳になっても青春である。青春とは年齢を指すものではなく、永遠を志向する眼差しである。
夢を夢にするものは、永遠に向かう憧れである以上、死ぬまで夢に辿り着くことはできない。夢に向かう道中、物質的に何かを手に入れたり、成し遂げることはできても、本当の意味で夢は叶えられないということだ。この地上的な物質を夢だと勘違いして、夢を叶えたと思えば、夢は永遠から切り離され、地上的な欲望に変化するのだと思う。夢を追う人間の姿は美しいが、夢を”叶えた”人間が、時として傲慢な腐臭を放つことがあるのは、そういうことだろう。ここに夢と欲望の境界を見つける。夢を叶えながらも美しい人間は、いまだ遠くに憧れつづけているのであって、夢を手にしたように見える彼(彼女)は、彼岸の道中を手にしたに過ぎず、遥か遠くの夢をいまだ追いつづけている。
「ではどうして今、メッカに行かないのですか?」と少年がたずねた。 「メッカのことを思うことが、わしを生きながらえさせてくれるからさ、そのおかげでわしは、まったく同じ毎日をくり返していられるのだよ。たなに並ぶもの言わぬクリスタル、そして毎日あの同じひどいカフェでの昼食と夕食。もしわしの夢が実現してしまったら、これから生きてゆく理由が、なくなってしまうのではないかとこわいんだよ。おまえさんも羊とピラミッドのことを夢見ているね。でもおまえはわしとは違うんだ。なぜなら、おまえさんは夢を実現しようと思っているからね。
パウロ・コエーリョ「アルケミスト」
パウロ・コエーリョの「アルケミスト」という小説がある。2,3年前に読んだ時は、このクリスタルのおじさんは、夢に向かって進めない臆病者だとしか思わなかった。しかし、おじさんの言うことは、夢の性質をよくあらわしている。メッカの巡礼を行えば、夢が地上的な物質となることをおじさんは怖れたのだ。巡礼は幸せなことだけれど、永遠への憧れを失ってしまうくらいなら、不幸なままでいたほうがいいとおじさんは考えた。臆病者かもしれないけれど、ただの臆病者だと非難できないのは、おじさんに人間の不幸性を受け入れる涙を感じるからだった。おじさんの生き方も苦しいだろうと、今は共感する。
ここに正解はないのだろう。夢を追うか追わないかは、個人の自由である。ただどちらにしても、自己が永遠と結びつかなければ、この世は虚無になるということだ。私が終始感じていた、夢を現実にすることの怖れはこれに尽きる。永遠の憧れが地上に堕ちてはしまわないかと怖くなるのだ。結局私も、臆病だと思っていたおじさんと同じだったかもしれない。それでも私はここから進んでいく。
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