私たち人間には、一人と欠けることなく、夢や目標、憧れがある。
「いや、そんなものないよ」と言う人でさえも、よくよく心を見つめれば
- 「本当は今の生活がもっとこうなったらいい」
- 「本当はこんなことができるようになりたい」
- 「本当は海外に住んでみたい」
なんて想いを隠し持っていたりする。
それを「夢」と言うのか、「理想」と言うのか、「憧れ」と言うのか、なんてことは大した問題ではない。
その願望がどれほどの大きさなのか、なんてことも問題ではない。
言い方は何であろうと、大きさはどうであろうと、それは私たちの持つ『望み』に変わりない。
「望みを持つこと」こそが、尊きものではないかと私は思う。
パウロ・コエーリョ著「アルケミスト」に、こんな一節がある。
「恐怖に負けてはいけないよ……恐怖に負けてしまうと、おまえは心に話しかけることができなくなってしまうからね」
「もし、自分の運命を生きてさえいれば、知る必要のあるすべてのことを、人は知っている。しかし夢の実現を不可能にするものが、たった1つだけある。それは失敗するのではないかという恐れだ。」
私たちは、「夢」や「憧れ」を抱くとき、同時に恐怖を抱く。
その恐怖に圧倒されると、心との通信は途絶えてしまう。
心との通信を絶すれば、恐怖も断ち切ることができるから。
ただ、断ち切られた「恐れ」は消えてなくなるわけではない。
見てみぬふりをされたまま、心の中に、ずっと残り続ける。そして、事あるごとに私たちを脅かす。
夢を実現するために必要なことなんて、極めてシンプルだ。
「自分はできないだろう。自分には無理だろう」と恐れに打ちひしがれるのではなく、
愛を持って、ただひたすらに自分を信じ続けること。
「自分では無理だ…」「自分はできないかもしれない」という心の嘆きを信じれば、私たちの抱える「望み」は叶わぬものになる。
私たちは、信念を現実世界に体現しつづけるから。
至極当たり前のことだけれど、誰がなんと言おうと、何を信じるかは私たちの自由だ。
一度きりの人生くらい、せめて自分を信じることだけは、許してくれないだろうか。
Contents
1 夢を実現するためには己を信じるしかない
私たちは自分が信じた世界を生きている。
既に自分が望んだ世界を生きている。
「アルケミスト」を知らない人のために、簡単に紹介する。
これは羊飼いの少年が、夢のお告げを信じ、遠く離れたピラミッドに宝物が眠っていると信じて、砂漠を旅する話だ。
砂漠を横断する中、彼はらくだ使いの男から、こんな話を聞く。
ある日のこと、大地がゆれ始めました。そしてナイル川が堤防をこえてあふれ出てきました…..私の隣人は、その洪水でオリーブの木を全部失ってしまうのを恐れました。私の妻は子供を失うのを恐れました。私は自分が持っているもののすべてがだめになるだろうと思いました。
結局、土地は荒廃し、私は他に生きていく方法を見つけなければなりませんでした。…..しかし、その災害は私にアラーの言葉を理解させてくれました。人は、自分の必要と希望を満たす能力さえあれば、未知を恐れることはない、ということです。
私たちは、夢や憧れと一緒に、「恐れ」を抱く。
そしてこの未知への「恐れ」は、私たちの望みを徐々に食い蝕んでいく。
- 私には無理だ…
- そんなことできっこない….
- 私はそんな強くない
- 私はそんなに頭が良くない
- 私はそんなに頑張れない
食い蝕まれた私たちの望みは、徐々に消えていく。
心は腐食し、やがて「叶わぬ夢」となる。
らくだ使いはこう言う。
「『自分の必要と希望を満たす能力』さえあれば、未知を恐れることはない」
らくだ使いの言葉には、夢と一緒に生じる恐怖と対峙するためのヒントが隠されている。
彼の言葉の続きを紹介しよう。
私たちは持っているもの、それが命であれ、所有物であれ、土地であれ、それを失うことを恐れています。しかし、自分の人生の物語と世界の歴史が、同じ者の手によって書かれていると知った時、そんな恐れは消えてしまうのです
彼が教えてくれたのは、私たちは『人生の主人公である』ということだ。
私たちは、自分の人生を自分で描き、その中のど真ん中を歩くように生きている。
この筋書きは、決して他人に煩わされるものではない。
いや、そもそも他人になど、私たちの筋書きを惑わすことなどできない。
これは自分だけが描くことを許されたものだから。
彼の言葉を借りるなら、他人に惑わされることで生じる「恐れ」も、「同じ者の手」である自分が描いているに過ぎないものだ。
解釈の余地を残したいので、あえてこの言葉に深入りはしない。
もし今この言葉にピンとこなくても、来るべきタイミングで腑に落ちるだろう。
これまで私たちは自分の思い描いた人生を生きてきたし、これからも思い描いた人生を生きていく。
今日1日の行動がすべて、自分が作ったものだと気づくことができたとき、人は自分の人生の描き手になれるのだろう。
そうすれば、望みを叶える恐怖は姿を消す。
2 夢を実現するときの「恐れ」は消える
夢を実現するには、心の傷に向き合うことから。
望みを叶えるために、歩む毎日は、輝きに満ちる。
旅する少年は、砂漠にあるオアシスで、錬金術師に会う。
少年は錬金術師とこんな言葉をかわす。
「僕の心は、傷つくのを恐れています」…..
「傷つくのを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいものだと、おまえの心に言ってやるがよい。夢を追求している時は、心は決して傷つかない。それは、追求の一瞬一瞬が神との出会いであり、永遠との出会いだからだ」
私は、この世界には「恐れ」を溶かすものが2つあると思っている。
1つが『夢』。もう1つが『愛』だ。
過去の傷を癒すことで、恐れがなくなるのは、愛の力。
未来の夢をありありと描くことで、恐れが溶けるのは、夢の力。
前者は母性から生まれる母なる力で、後者は父性から生まれる父なる力とも言える。
本来、人はそんな力を母親と父親から与えられる。
母から愛情をうけながら、父から知恵を育み、夢を描く。
ただ、今の日本ではそれが理想郷になりつつある。
それゆえ、欠如した愛情や夢は、カウンセリングやコーチングという形で社会で補完される。
話を戻そう。
私たちが、愛や夢に神秘的な美しさを感じるのは、『人知を超えた神のような力』を感じるからだろう。
愛や夢の力はとても強力で、「恐れ」を一瞬で溶かしてしまう。
- 「ありがとう」という感謝の気持ちに包まれれば人は幸せになれる
- ワクワク感やドキドキ感は、坂道を思いっきり駆け上がる熱量を与えてくれる
想像してほしい。
- あなたの後ろには、過去の自分がいる。苦しかったけれど、頑張ってきた自分がいる。そんな過去の自分は、あなたの背中を手で支えてくれている。
- あなたの左手には、大切な人がいる。両親、パートナー、友達。彼(女)らは、あなたを温かい目で見守ってくれている。「何があっても大丈夫だ」と。
- あなたの右手には、尊敬する人がいる。あなたの理想を生きている人。彼(女)はあなたを励ましている。「お前なら大丈夫だ」と。
感謝の気持ちを抱きながら、望みを叶えようとする人間が強いのは、どうしてだろうか。
それは、愛の力と、夢の力に支えられているからだ。母なる力と父なる力が合わさった時、人は頑張れるのだ。
それを自分の体内に感じながら、夢へと向かう瞬間はきっと宝物のような時間だろう。
その時間一瞬一瞬が、愛であり、夢の一部なのだから。
3 夢を実現するのに終わりはない
夢が破れるのは、自分が信じることをやめたとき。
年齢なんて気にせず、どこまでも追い続けたい。
ここまで読んでいただいたら分かるように、信じつづけるかぎり、夢が破れることはない。
例えそこに、砂金が本当にないにしろ、「この川に砂金はある」と信じれば、そこに砂金はある。
…..なんていうと、聞こえは”めちゃくちゃ”だけれど、私たちはしばしばこれと逆のことをする。
砂金がそこにあったとしても、「この川には砂金がない」と信じて、砂金を採ることをやめてしまうのだ。
正直なところ、砂金があるのかどうかなんて、誰にも分からない。
結局は「どちらを信じるか」の問題だ。
できることを信じるのか、できないことを信じるのか…
砂漠を旅する少年は、旅を通じてこのことを教えてくれる。
彼はずっと、宝物があると信じて、砂漠を横断するけれど、「砂漠を超えた先に、宝物が眠っている」なんて根拠や保証はどこにもなかった。
彼はただ、夢で見たこと、夢占いで「ピラミッドに行け」と聞いたこと、王様から「夢を信じろ」と言われたこと、それだけで羊を手放して、旅に出た。
『ないかもしれないもの』を信じること。
これは簡単のようで難しいのかもしれない。
「なかったらどうしよう….」「できなかったらどうしよう….」と自分を守りたくなる。
けれど、これこそが「希望を持つ」ということではないだろうか。
「やれるか」で足踏みしても、埒が明かないのは、そんなことはふたを開けてみないと分からないからだ。
だから私たちは「やりたいか」の気持ちを大切にして、「どうやってやるか」を考えることの方が大事だ。
「希望を持つ」には勇気がいることなのかもしれない。
けれど、「私はできる」「そこには宝がある」と信じて足を踏み出すこと…..
夢を追うとは、そういうことではないだろうか。
4 夢を実現する途中で死ぬのだ
「もしできなかったら」なんて考えなくてもいい。
できなければ、夢の途中で死ぬだけだ。
少年と錬金術師は、砂漠の道中で、ある部族に襲われる。
命を奪われそうになった錬金術師は、相手の部族長とこんな約束を交わす。
この少年は、錬金術師だ。その気になれば、風の力でこの野営地を破壊できる。
その力を見せるために、彼は自分の姿を風に変えてみせる。3日の内に、できなかったら命を差し上げよう……と。
自分のことを「錬金術師」だと言われた少年と、錬金術師はこんな会話をする。
「僕は失敗することを恐れてはいません。ただ、自分をどうやって風にするのか、わからないのです」
「ああ、それはお前が学ばなくてはならない。おまえの命がかかっているからね」
「でも、僕ができなかったら?」
「その時は、お前は夢を実現する途中で死ぬのだ。それでも、自分の運命が何かを知りもしない何百万人よりかは、ずっと良い死に方なのだよ。」
私たちが、夢を追うことを諦める理由を掘り下げていくと、多くの場合「食っていけない」にたどり着く。
食っていけなかったらどうなるか。飯が食えなければ、人は死ぬ。
つまり、夢を追うことをやめるのは、「死の恐怖」が根底にある。
そう、結局恐怖なのだ。
ここで1つの問いに、ぶち当たる。
- 『夢』と『愛』の力は、『死の恐怖』までも溶かせるほど強力なのだろうか?
正直、今の私はこの問いに対して明確な答えを持っていない。
私自身、夢追い人の身だ。
けれど、信じたいという願望はある。
仮に食えなくなって死んだとしても、夢を追い求め、愛に包まれていたならば、穏やかに笑って、誇らしげに死ねると。
この問いに対する答えが見つかるのは、私が死ぬときかもしれない。
5 夢を実現するのに、大きさなんてどうだっていいじゃないか
「どんな望みを持つか」より「望みを持つこと」のほうがよっぽど大切ではないだろうか。
「あるか分からないけれど、自分の望むものがある」と信じられたとき、世界は鮮やかに彩られる。
冒頭で言ったように、「望みの大きさ」がどうであれ、そんなことは大した問題ではない。
どんな小さなものであれ、望みを持つことの方が、ずっとずっと大切だ。
望みを持つかぎり、私たちのもとには希望が降り注ぎ、
希望が降り注ぐかぎり、私たちの物語は鮮やかに彩られるのだから。
世界を見渡せば、大きな夢や志を掲げる者は大勢いる。
過去を振り返れば、歴史を刻んだ偉人もたくさんいる。
もし彼らと自分を比べ、「恐れ」を抱いてしまうのなら、どうか「愛」と「夢」の力を思い出してほしい。
あなたは愛されている。あなたの命には、人からもらった優しさが宿っている。そんなことを1つでも思い出せれば、身体は愛で包まれる。
夢が実現した瞬間、どんな表情をしているだろう。大切な人はどんな表情をしているだろう。そのときあなたはどんな感情を味わっているだろう。心が躍り始めたころには「恐れ」はどこかに姿を消している。
生きよう。
そしていつか笑って死のう。
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