悲しみは分断によって生じる感情である。個と個が分断して生きる時代、社会の根底は悲しみに満たされている。ちいさなテレビを大勢の人間が囲った時代と異なり、娯楽までもが個別化する今日は、楽しいや嬉しいといった感情はどれもが二次的だ。奥底に沈む深い悲しみは、自然を分断したことのそれである。ゴミが生じることは、もはや疑問でもなくなった。当たり前のように買っては捨てる慣習の上に、いくら愛を欲しても、そんなものは自己矛盾というものだ。分断の上で愛に生きるのは難しい。それを成し遂げる力ある人間もきっとある。私はただ成り行きで、自然を眺めることになっただけだ。
田舎には自然がよく残っている。雪が積もったアルプスは、雄々しくて美しい。田舎の人間が親切になるのは必然の成り行きに思える。無論、田舎だからといって、すべての人間が自然と生きているわけでもない。私が思う共通点は、比較的ゴミが出ない暮らしぶりである。畑で野菜を育て、漬物を作り、物が壊れたら自分で修理するような人たちは、生活にあまりゴミが出ない。そんな人たちは、近所付き合いも上手で、心穏やかに暮らしているように見える。古いものをどんどん捨てて、何でも金で解決する慣習の家々は、面倒な近所付き合いから独立すると同時に、孤立しているようにも見える。便利な生活の奥底に、悲しみを隠しているように見える。
半ば自然は克服されたことは人類の必然であった。今さらどうこう言えることでもない。私はそんな街の暮らしぶりに耐えきれなかっただけだ。自分が愛情深い人間とも思わない。ただ、自然との合一を求める心は、日本人の情感を呼び醒ますものだと感じるし、その結果として、愛情もまた大きくなると思うのである。
2024.1.9