秋の風がさらさら音を立てて、稲穂の上を流れていく。綿の野良着にわら帽子を被った婆ちゃんが、ちいさなちいさな腰を曲げて、手鎌で稲穂を刈り取っている。もし今日、現存する日本人の美しい姿を挙げるとしたら、婆ちゃんが田畑で働く姿にちがいないと確信する。インドを旅したときに見た、サリーに身を包んだ老婆も美しかった。どこの国においても、古く美しい婆ちゃんには、可愛らしさがあるのが特徴だ。苦労の母は子に勇気を与えるが、婆ちゃんの懐は、そんな母の心労までも労う。婆ちゃんは広く深く、とても人間的だ。人間的で貴いからこそ、たいせつにされる。
この数日、世話になる農家で稲刈りをしている。主人が重機で稲を刈り取るなか、婆ちゃんと夫人と私で、藁束を立てていく。本来であれば、手で刈り取った稲を天日干しにするところだが、今は大半の農家が重機で収穫し、そのままライスセンターに持っていく。天日干しのほうが米はずっと美味くなるが、広大な田を人力でまかなうのは、たしかに途方もない労力がかかる。
重機はとてもよくできている。稲刈りと脱穀を同時にするのは、見ていれば分かることだが、さらに取り込んだ藁を束ねてひもで縛り、藁束にして自動で産み落としてくれる。ここから人間の仕事が始まる。産み落とされた藁束を、四束にして、立たせた状態にして藁紐で縛っていく。こうして藁を乾燥させて、着るものをつくったり、肥料にしたり、納豆をつくったりと活用されていくわけだ。
総じて、米を信仰する私にはとてもいい時間になった。藁の甘い香りに包まれ、秋の風に涼みながら仕事をする婆ちゃんたちから、人間の幸福をみた。なぜ働くのか、なぜ生きるのか、そんな問いは婆ちゃんたちには無縁だろう。昼はよく働いて、美味しいご飯を食べて、夜はぐっすり眠る。そんな当たり前のことに、琴線を揺らされる。
2024.9.27
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