本もネットもない時代の孤独とは、どれほどのものだろう。憎まれ裏切られ死んでいったキリストの孤独は想像に絶する。今は孤独といっても、過去に孤独に死んだ人間の魂に触れられる。孤独であることは変わりないが、同伴者がいることはとても心強い。また、永遠の同伴者になることこそ、キリストが望んだことだった。苦しみを知らなければ、人の苦しみを理解できない。すべての人間にとっての同伴者となるために、キリストは誰よりも苦しんで死ぬことを選んだ。
誰にも理解されず孤独に死んだ男の憧れは、弟子たちと信者の命懸けの戦いにより守られた。はるか東の日本には、16世紀にフランシスコ・ザビエルの命懸けの航海によって伝わった。そして2000年の時を経た現代まで、キリストの魂は語り継がれている。これは本当にすごいことだと思う。肉体は現世で消滅しても、魂は時を超えて生きつづける。永遠を求める心が、キリストを永遠の存在とした。今日、私の拠点にもベラスケスのキリストが飾ってある。私はキリスト教徒ではないが、イエスという一人の人間の魂を感じるといつも奮える。キリストのように、肉体の不幸を厭わず、崇高に死にたいと思う。
本をめくれば偉大な魂がたくさん眠っている。その内の一つにも出会うことができたら、こんなにも価値のあることはないと思う。現世は孤独だが、同伴者は永遠である。この同伴者と共に、自己の魂を煥発して、同じように永遠を求めて生きるなら、生命は自ずと燃焼していくことを確信する。永遠を求める魂だけが、この命を燃やしてくれる。時代を語り継がれる人物は、そうして永遠を手に入れたのだろう。いつの時代も、現世は地上的な価値に縛られる。そこをどう脱するかが人生には試されている。生命燃焼を阻害するものは食らい尽くす。水をも燃やす炎となって、永遠に向かっていけ。
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