理解されないのは自分を貫いてる証拠。怖がらず堂々と生きよ。

「私は人から理解されない」って感じると、人は孤独を感じる。

「私は私を理解できない」って感じると、もっと孤独を感じる。

 

誰からも理解されないことで、苦しい思いをしているのなら、立ち止まってこう問うてみてほしい。

果たして自分は、誰かに理解されるために生きているのだろうか。

人に理解されない自分は、「価値がない存在」なのだろうか。

 

私は逆だと思う。

私たちは誰かに理解されるために生きてるわけじゃない。

人に理解されない部分は、私の価値だって。

 

理解されない悲しみは嘆かくてもいい。胸をはって堂々と生きればいい。

人に理解されない部分には、「私たちの人生」がふんだんに詰まっているのだから。

 

 

1 理解されない部分はあなたの財産

理解されないのは、あなたが芸術的だから。

無条件に素晴らしいのだから、『誇り』を持って生きればいい。

 

理解されない部分って、「芸術」と同じだと思う。

 

以前にこんな記事を書いたんだけれど、人は誰しもが芸術的な部分を持ってると思うんだ。

絵が上手いとか、歌が上手とか、芸術って決してそういうものだけじゃない。

 

「自分がどう感じるか」っていう誰しもが持っている感性も立派な芸術だって私は思う。

  • 朝日を見てどう感じるか
  • 虹を見てどう感じるか
  • 海を見てどう感じるか
  • 嫌なことがあったときどう感じるか
  • 嬉しいことがあったときどう感じるか
  • 悲しいことがあったときどう感じるか
  • どんなことが好きって感じるか
  • どんなことが嫌いって感じるか
  • どんなことが「最高!!!」って感じるか

ぜんぶ、ぜんぶ、芸術。

 

私の好きな芸術家に、岡本太郎さんって方がいるのだけれど、こんな言葉がある。

芸術は売れなくてもいい。好かれなくてもいい。

芸術は認められなくてもいい。成功しなくてもいい。

自分を貫いてぶつけて無条件に自他に迫って行く事が芸術だ。

 

つまり、

  1. 理解されないのなら、理解されなくてもいい
  2. お金にならなくてもいいし、好かれなくてもいい。
  3. 理解されなくても自分を貫くことが、無条件に価値のあること

っていうこと。

 

なんか、すごく勇気の出る言葉じゃない?

私はものすごく勇気をもらった。

 

誰がなんと言おうと、私たちの感性は、無条件に価値のあるもの。

  • 理解されないことは、私がアーティスティックだから
  • 自分で感じ、自分で表現して生きてることは、すごく尊いことだ

 

そう考えれば、「理解されないけれど、自分は間違っていないんだ」って少なくとも私は思えてくる。

 

理解されない孤独は、苦しい。

けれど、この世界のどこかにはきっと、理解してくれて、応援してくれる人がいるんだって私は信じたい。

 

2 理解されないのなら、理解されない道を行く

理解されないときは、

理解されようとするのではなく、理解されないままに生きる。

 

理解されないときって、すごく孤独だから、「理解されよう」って思う。

けれど、これも逆じゃないかな。

 

人は人のことを「理解しない」のではなく「理解できない」のだ。

だから、理解されないものだと割り切って生きた方が、自分を生きられる気がする。

 

「私を理解して」と「私を理解して」がぶつかり合うから、

「あなたが分からない」と「あなたが分からない」の不毛な戦いが生まれる。

 

「私は理解できない」と「私は理解できない」がぶつかり合えば、

「あなたはそう生きるのね」と「あなたはそう生きるのね」の尊重が生まれるんじゃないかって。

 

そんな風に、尊重する関係性を築けてたら、苦労はしないかもしれない。

けれど、「理解して」と相手に期待するのは、「あなたは間違っている。私を理解しなさい」と命令してるのと本質的には一緒よね。

 

そんな対等と言えない付き合い方は、減らしていったほうが豊かになると思う。

 

ついこないだも、書いたのだけれど、私たちはただ相手に気持ちを受け止めてほしいだけなんじゃないかって思う。

会話をキャッチボールに例えるなら、ひたすら相手のミットに投げ込んで、ただボールを受け止めてほしいだけだって。

 

3 理解されなくても自分は最大の理解者になってやろう

他人に理解されないことがつづくと、自分でも自分のことが理解できなくなる。

それでも、自分は自分の理解者でありつづけよう。

 

先日、私は事故をしてしまった。

原付にテントと寝袋を積んで旅をしているのだけれど、雨の中走っていたら、下り道でタイヤがスリップして転倒してしまった。

 

幸いかすり傷と打撲で済んだのだけれど、道に荷物が散らばって、雨でびしょぬれになって、原付のステップは曲がってしまって、レインコートは破けてしまった。

そのとき、もうわけわかんなくなった。

「なんでこんなお金にもならないような、生産性のないことをして、死にかけてるんだろう」

「私はただのバカなんじゃないか」

って、なんだか泣けてきた。

 

他人に理解されないことがつづくと、「本当にこれでいいのかな」って少し自信がなくなってくる。

それが続くと、だんだん自分でも自分のことが「間違ってるんじゃないかって」理解しがたくなる。

 

「自分」にも見放されてしまったときは、本当に本当に孤独ね。

押しつぶされそうになる。

 

けれど、改めて今思う。

「私たちは間違ってないんだ」って。

 

私たちの持つ、芸術的な部分は、人の理解されがたいのかもしれない。

そんな人ほど、「孤独」を抱えつづけることは、事実としてあるのだと思う。

 

けれど、決して間違ってない。

間違っていないから、自分だけは最大の理解者でいてあげよう。

 

他人に理解されない孤独を背負いながらも、必死で生きるって、私はすごく魅力的だと思う。

私は心から応援したい!

 

だから胸を張って堂々と生きよう。

2019.11.5 旅の動画更新!

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2 件のコメント

  • 初めてコメントします。京都の大学生です。以前から度々ブログを拝見させていただいてます。とむさんの詩的な言葉と独特な考え方に刺激を受けています。ところで、質問なのですが、どのようにして承認欲求を満たしているのですか?それとも承認欲求とういものから解放されているのでしょうか??私はどうしても承認欲求が強く、人に認めてもらいたいし、認めてもらったときにこの上ない幸福感を得ます。様々な自己啓発本やビジネス書、名言で自己武装して、人に認められなくてもいいんだと考えても、すぐに効果は無くなり人からの承認を求めてしまいます。私は一生承認欲求の呪縛から逃れられないのでしょうか??

  • 山中千尋さん

    初めまして、とむです。
    いつも読んでくださり、ありがとうございます。
    なんと、嬉しいお言葉…! こうして関わりを持てたこと、本当に本当に嬉しいです!

    私自身も、もちろん承認欲求を抱えています。 人に認められたら嬉しいですし、空回りして嫉妬することもあります。
    人間である以上、どんな人でも持っている欲求ではないでしょうか。

    ただ、ここ長らく私は「承認欲求」という言葉を一切使わなくなりました。

    それは、「認めてほしい」という気持ちのもっともっと深い所には、「あなたと笑い合いたい。」「あなたと繋がりたい。」「あなたと頑張りたい。」「あなたと泣きたい。」のような『愛』が根本にあると感じるようになったからです。

    「承認欲求が強い」ということは、「本当はもっと愛に生きたい」だけなんだ。
    素直に表現できないだけで、本当はすごくすごく、愛のある人間なんだ。

    そんなことを感じたときから、「承認欲求を満たす」ことから、「愛に生きる」ことを大切にするようにしました。

    心が感じたことを、素直な言葉にして、正直に行動していく。
    頭の損得勘定よりも、心が「どう感じるか」を大切にする。
    後味の悪いことを減らして、後味の良いことを増やしていく。

    すごく、ありきたりな表現になってしまいましたが、心がけていることはこれだけです(^^)
    心が思う自分に近づいて行って(夢)、心が思う人との繋がり方(愛)ができたら、すごく幸せなんじゃないかなって私は思うのです。

    最初はうまくいかなくても、自分や周り、社会の常識と葛藤しながらも、自分の心に正直に生きていく…
    そんな生き様こそが、人間の醍醐味だって私は信じています。

    こうして、千尋さんと繋がりを持てたこと、心より感謝!
    本当にありがとう。

    とむ

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    ABOUTこの記事をかいた人

    孤独が大好きで、24時間内省している人間。 「自分」を大切に生きることについて模索し、「自分」を生きることに全うしている1人の挑戦者です。 日々の学びが、誰かのためになればと思ってブログ書いています!