いつ死んでもいいように生き尽くせ。悔いを残さず生きたい貴方へ。

 

「いつ死んでもいい」と思うことができたときが、命に対して誠実になれた瞬間なのだと思う。

半年前、私は原付で事故をした。

ちょうど旅の最中で、とある人に手紙を届ける途中だった。

事故をしたとき、真っ先に頭に降ってきた言葉が、「このまま死ぬわけにはいかねぇ」だった。

 

あれから半年たった今は、山でテント生活をしながら、ホテルの洗い場で働いている。

ここには、幅広い年代の人がいるが、場の中心にいるのは”パートのおばあちゃん”だ。

先日いつものように、お皿を拭いていると、70歳近いおばあちゃんが、微笑みながら私にこう言った。

 

「私はいま、とても幸せ。もういつ死んでもいい。」

 

彼女を見て、最高に最幸だと思った。

そして人生が極めて単純なもののように思えてならなかった。

 

「いつ死んでもいいように、生き尽くすこと」

 

たったこれだけで、人は命をまっとうできる。

そんな風に思った。

 

私たちは、悩む。

「やりたいことがない」だとか、「失敗することが怖い」だとか…

けれどそれはただ、小さな次元で、小さな視野で、小さな世界で物事を考えすぎているときなのだと思う。

 

どうしたら、悔いなく死ねるか?

どうしたら、死ぬときに「いい人生だった」と笑って死ねるか?

 

あらゆる悩みの突破口は、この問いに集約されているのではないだろうか。

私たちが抱える不安の根底にあるのは、突き詰めれば死への恐怖だ。

 

「私はもう死んでもいい」と思えたとき、人は死の恐怖を受け入れる準備ができている。

「私はもう十分に生きた!」「私はもう十分に幸せだ!」と心の底から思えた時、死の恐怖は霞むのだと思う。

 

「いつ死んでもいい」と思えるくらい、幸せに生き尽くすには、どんな風に生きたらいいだろう。

私は、「生きるために生きる」のではなく、「死ぬために生きる」ことだと思う。

惰性的に生きるのをやめて、「死ぬ覚悟」が少しずつ持てるように、生きることだと思う。

 

 

1 いつ死んでもいいように、悔いを残すな

まだ死ねないのは、やり残したことがあるから。

まだ死ねないのは、本気を出し切れていないから。

 

おばあちゃんの言葉を受けた後、原付で事故をした日の、日記を見つめ直した。

私は当時、こんな気持ちを綴っている。

2019.6.15

事故った。

タイヤの溝がないって本当に危ないんだな。

雨でスリップして、横に転倒。

積んでいたテント、寝袋、マット、荷物が道にバラバラに散らばった。

幸い後ろから車は来ていなかったけれど、もし車が来ていたら大惨事になっていた。

 

「馬鹿だな俺」って思った。

生産性の全くないことをして、

一人で勝手に死にかけてる。

 

「死にたくない」って思った。

まだ死ねない。

ここで死んだら悔いが残る。

悔いしか残らない。

 

コーチングもカウンセリングも、サドベリー教育もやりたい。

旅する中でもっと美しい人に出会って、美しい景色に感動したい。

 

全国に家族を持ちたい。

サドベリースクールも作りたい。

愛するパートナーと結ばれたい。

まだ見てない世界を全部見たい。

 

親より先になんて死ねない。

親のほっとする笑顔が見たい。

親に死を見届けられるんじゃなくて、親の死を笑って見届けてやりたい。

 

こんなとこじゃ死ねない。

こんなとこで命を無駄にできない。

 

次に進もう。

どんどん動いて、

どんどんやりたいことを形にしていこう。

 

生かされた。

命を救われた。

 

生きよう。

命を大切に。

死ぬときに、笑って死ねるように。

 

「まだ死ねない」の言葉の次に出てきた言葉は、「〇〇がやりたい!」だった。

先送りしていた自分のやりたいことが、次々と降り注いできた。

 

「やりたいこと」は、叶わなければ、「やり残したこと」になる。

「やり残したこと」は多ければ多いほど、「悔い」は積もる。

 

「あれもこれも」と、やりたいことの数が多い人ほど、幸せそうに見えるけれど、必ずしもそうとはかぎらない。

いくらやりたいことがあっても、それが形にならなければ、それは「哀れな願い」だ。

 

本当に幸せな人は、たった1つしか願望がなくとも、その1つを律儀に、謙虚に、行動している人だと思う。

もしくは、やりたいことがなくとも、今の自分と身の回りの人を大切に生きている人だと思う。

数をこなす派手さはなくとも、心は静かに満たされている。

 

仏教には、渇望は苦しみを生むという考え方がある。

「これがやりたい」「あれがやりたい」と、願えば願うほど、執着となり、叶わない現実に失望をおぼえる。

 

渇望を捨てよ、ということではない。

ただ、やりたいと願うのなら、自分のためにもそれを行動に移してやることだと思う。

 

やりたいことは、行動の有無で、「充実感」にも「悔い」にも「失望」にもなる。

死んでもいいと思えるには、どれを得ていくのがいいだろうか。

 

答えは一目瞭然だ。

そんなことを日々問うて生きようではないか。

 

2 いつ死んでもいいように、未来から自分を見よ

「未来の自分」から「今の自分」を見たとき、未来の自分は何と言うだろう。

「いつ死んでもいいぜ」と言う私が贈る言葉が、今の私を勇気づける。

 

行動に移しても、勇気が持ち切れないとき、

未来の自分から言葉を受け取ること」

が力になる。

 

私は毎朝、未来の自分、「死んでもいいと思えている自分」から言葉を受け取って、1日を始めている。

  • 「いけ!そのままいけ!お前は大丈夫だ!」
  • 「今は怖いかもしれないけれど、乗り越えた時、必ずやってよかったと思う!」
  • 「やるかやらないかで、人生は変わっていく」
  • 「やってよかった、思い切ってよかったってきっと思うよ」
  • 「怖いよな、怖いからこそ、この決断をしたお前を誇りに思うよ」

 

そんな未来の自分からの言葉というのは、とても心強い。

周りから鼻で笑われたとしても、「俺は大丈夫だ!」と不思議と自分の道に確信が持つことができる。

 

そのくらい、遠い未来から贈られてくる言葉は、特別で、強烈で、意味があるものだ。

以下に、私が毎朝行っている、未来の自分から言葉をもらうワークを紹介しようと思う。

 

自分自身に、勇気を奮い起したい人は、ぜひ挑戦してみてほしい。

 

2.1 いつ死んでもいいように、未来の自分から言葉をもらう

未来の自分から言葉をもらう方法

  1. 制約のない未来を生きている自分/死んでもいいと思えている自分を描く
  2. 1の自分から「今の自分」を見て、言葉を贈る
  3. 今の自分に戻って、未来の自分から言葉を受け取る(感じる)

※平本式コミュニケーション/アドラー心理学/コーチング

未来の自分から言葉を受け取るとき、最初に行うのは

「1.制約のない未来を生きている自分/死んでもいいと思えている自分を描く」

ことです。

 

ここで、どれだけ五感をリアルに、臨場感を感じられるかが、このワークの肝になります。

以下の問いを参考に、臨場感を感じられるように描いてみてください。

制約のない未来の自分は…/死んでもいいと思えている自分は…

  1. どんな表情・姿勢をしている?
  2. どこにいる?
  3. 何を見ている
  4. 何を聞いている?
  5. 何をしている(成し遂げている)?
  6. 何を考えている?
  7. どんな気持ちでいる?

 

以下、例を紹介します。

あくまで、私の一例です。

(例)ユーラシア大陸を、自転車で横断してる。

顔で風を切りながら、「うおおおおおおお」と叫んでいる。

 

声は地球を震わせ、その地球の震えに自分も震えてる。

全身に疲労を感じている。足が重い。

 

けれど、今この瞬間を生きてることを実感している。

心は子供のように踊っている。この先に広がる世界は未知。

そんな道をまっすぐ進んでいる。

 

宿は見つらなかった。

今日は、焚火をして、市場で買った肉を加熱して食おうと思う。

今日も生きられたこと、人に支えてもらったこと、そんなの愛を胸いっぱい受け取って、その愛を明日出会う人に繋いでいくことを心から楽しみにしている。

 

未来の自分を描いたら、

「2.未来の自分から、今の自分を見て、言葉を贈る」

ことをします。

 

ありありと描いた自分は、今の自分にどんな言葉を贈るでしょう?

労いの言葉、励ましの言葉、勇気づけの言葉、それはきっと今の状況によって変わるはずです。

 

正直な言葉をかけてみてください。

(例)

  • 「それ、やっちまいなよ、きっと後で良かったって思うから。」
  • 「嫌なことや、大変なことなんて、一瞬よ。それを乗り越えた先にいる自分を想像してみて。」

 

最後は、

「3.今の自分に戻って、未来の自分から言葉を受け取る(感じる)」

です。

 

今の自分に戻ってきて、未来の自分からの言葉を、全身で受け取ってみてください。

どの方角から、どんな声色で、どんな調子で、どんなエネルギーで贈られてくるでしょうか。

 

それを全身で感じてみてください。

きっと温かいものがこみ上げてくるのではないでしょうか。

 

3 いつ死んでもいいように、生き尽くせ

「死」に恐れを抱くのは、命をまっとうしきれていないからではないだろうか。

私たちが恐れるのは、親から授かった大事な命を、使い切れずに、粗末にしてしまうことなのかもしれない。

 

ある日、未来の自分からこんな言葉をもらった。

「お前はまだ『本気』じゃない。それは自分が一番分かってんだろう?」

 

私はいま、死ぬことが怖い。

原付で事故をしたとき、私は「親から授かった大事な命を、大切に使い果たせられないこと」を恐れているのだと感じた。

 

本気を出しきれず、望む未来があるのに、できることを行動に移せなければ、命をくれた親にも、天にも申し訳ない。

物は、使わないまま大切に保管するより、傷や凹みだらけになっても使い古したほうが、私は物に対して誠実になれた気がする。

 

これはきっと自分の命に対しても、同じなんだと思う。

傷ついて、凹んでも、その数が多ければ多いほど、それは命を生き尽くした証なんだと思う。

 

死んでもいいと思えている自分は、どんな自分だろう。

大切に保管された、ピカピカで傷のない自分ではなく、傷ついて、凹みだらけになった先にいる自分ではないだろうか。

 

少なくとも、私はそうだ。

たくさん傷ついて、たくさん泣いて、たくさん壁にぶつかって、たくさん挫折して、腹の底から叫んで、感動に雄たけびをあげて、命に感謝している自分。

 

きっとそれは、大切に保管された道と比べて、何百倍も茨の道だ。

けれど、私はどうしても死ぬときに悔いは残したくないのだ。

 

「愚直に一歩一歩、近づいていけ。」

私は私自身に、そう言いたい。

そして、これをお読みのあなたが、これに共感してくれているのなら、どうか一緒に歩んでほしい。

 

4 いつ死んでもいいように、今を大切に生きる。

「生きているだけで尊い」は、「受容」にも「激励」にもなる。

両輪を使って、今を大切に生きろ。

 

生きているだけで尊い、と言う。

この言葉は、自己無価値感に陥ったときに、「あなたは大丈夫!」という自己受容の言葉として捉えられることが一般的である。

 

ただそれはこの言葉の持つ意味の、片輪にすぎない。

生きているだけで尊いというのは、

「生きているだけで尊いのだから、例え上手くいかなくても、失敗しても、大丈夫。

『あなたには無条件に価値がある。』だから安心して前に進むのよ。」

という「激励」の言葉でもある。

 

この「受容」と「激励」は、両輪だと思う。

  1. 自分を抱きしめて
  2. 自分の背中を押してやる

この2つを繰り返して、初めて人は真っすぐ進める。

 

片方が欠けても、前には進めない。

「いつ死んでもいい」と思えるとき、きっとこの両輪を駆使して、人生を走り抜けている。

 

自分を抱きしめて、背中を押すことは難しいことじゃない。

誰にでも絶対にできる。

 

もしできなかったら、どうか私に会いにきてくれ。

きっと力になる。

 

5 まとめ

ここでお伝えしたかったことは、次の5つ。

  1. 「いつ死んでもいい」と思えているとき、人は最高に最幸だ。
  2. やりたい気持ちは、叶わなければ悔いになる。自分のためにも行動してやることだ。
  3. 未来の自分から言葉を受け取ることで、行動する勇気が持てる。死んでもいいと思えている自分はどんな自分か。
  4. 命をまっとうできないこと、命を粗末にしてしまうことは、親にも天にも申し訳ない。
  5. 傷つこうと凹もうと、「受容」と「激励」の両輪で前に進もう。生きているだけで尊いから。

 

生きよう。

今日も心臓の鼓動をしっかりと感じて。

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