夢なんてなくてもよかった。
「自分」でさえいられれば。
ラオスの首都、ヴィエンチャンの町を早朝に散歩していて、ふとそんな感覚を味わった。
ボクは、これまでずっと夢やビジョンを語り続けてきた。
だけれど、夢やビジョンは
「おまけ」のようなものだったのだ。
「おまけ」はおまけだから、別になくても大丈夫なのだ。
もっと大事なことは
- 今日この瞬間の自分が
- いかに「自分」でいられているか
ほんとうに、これだけだと感じた。
1 夢なんてなくても、生きることそのものが尊い
夢がたとえなかったとしても
生きていること、そのものが尊い
ニートをしているときも、こう強く感じた。
学校体質になじめず、学校の先生をやめたとき、5年、10年と描いてきたビジョンが一気に崩れ去った。
ボクのビジョンは、「社会に適応して働く」ことを前提としていたから、
働けなくなった途端、これまで見えていた道が、急に暗闇の中におちていった。
部屋の中から見る外の景色は、心地悪いものだった。
これまでフツーのことだと思っていた「働くこと」すらできない自分。
「フツー」だと思っていたことは、フツーではなかったのだ。
あれから、10カ月がたった。
このブログでも書いていたのだけれど、ニートの後は車上生活をしながらフリーターをした。
そして、貯めたお金の一部をつかって、東南アジアを一周することにした。
- 嬉しいときは、大声で喜んで
- 悲しいときは、しっかりと泣いて
- 苦しいときには、死にそうな顔をして
- ムカついたときには、罵声を放った。
自分の気持ちをしっかりと全身で感じとる。
そして、今日を生きる。
そんな風に生きてたら
『なんだ、これだけでよかったんじゃん』
って思えてきた。
「子供たちのため」みたいに躍起にならなくても、
「世界一周しながらカウンセリング」みたいに見栄はらなくてもいいのだと。
夢なんてなくても、生きることそのものが尊いのだと。
2 夢なんてただのおまけ。働くこともおまけ。
今では
夢なんてただの「おまけ」
だと思っている
持てる人は持ったらいいのだけれど、たとえ持てなかったとしてもオッケー。
夢がないからといってあせる必要はないし。
夢を無理に作ろうと躍起になる必要もない。
自分が自分として存在することそのものが尊いのだから。
そしてもう1つ。
働くことも「おまけ」
だとボクは思う
「生きることそのものが尊い」
そんな感覚が腑に落ちてから、働くことも「おまけ」でしかなくなった。
これまで、ボクにとって「働く」ことは自己実現の1つの手段だった。
このブログでも過去にそう書いてきたし、いまもそれを否定するつもりはない。
ただ不思議なことに、働いていない状態の今、すごく自分が理想に近づいている感覚があるのだ。
もしかしたら、
「働くこと」は、「不可避」というお面をかぶった1つの選択肢にすぎなくて、
「働かないこと」のさきにも、自己実現の道はあるのかもしれない。
そんな風に思えてきた。
けっきょく、「働く」「働かない」の見かけの問題じゃなくて、
- 自分の気持ちをいかに感じ取れてるか
- 自分をいかに大切にできているか
が肝なんだと思う。
3 「夢なんてない」と嘆きたくなったら
「夢なんてない」と嘆きたくなった時には
『自分は本当はどうしたいのか』
を問うてみることです
世の中には、2種類の人間がいるといいます。
- ビジョン型
- 価値観型
未来のなにかを実現する生き方でないと、幸せになれないということはなく、
目の前の1日を幸せに生きる、価値観型の選択肢もあるということです。
タイのバンコクで出会った屋台のおっちゃん。
毎日屋台に立ち、お客さんから注文を聞き、料理をふるまう。
お客をみては、気さくに会話し、なごんで、笑いあう。
彼はこの生活を40年続けているといいました。
しかも、睡眠はわずか3時間ほどで、ほとんど仕事をしているのだとか。
毎朝起きては、同じように生活している。
だけど、彼はすごく幸せそうでした。
世の中のある場所からは、
- 「夢を持て」
- 「目標をかかげろ」
なんてメッセージをうけとることもありますが、それは1つの型にすぎません。
「まあそういう生き方もあるよね」くらいで適当に流して、自分の価値観に生きてみる。
- 「自分」が歓ぶ1日
- 「自分」を大切にできる1日
⇒そんな毎日を生きてたら、日々は充実感であふれていく。
充実感を心地よく味わいながら、眠りに落ちて
そんな人生も悪くないんじゃないかな。
最後に、タイの屋台のおっちゃんが登場する動画を紹介。
といっても、登場シーンは、わずか5秒くらいなんだけど(笑)
約4分の短い動画なので、よかったら見てね!
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