「毎日が暇だ」という台詞を吐く人間は、時間に追われることと、時間を追うことの狭間にいる人間なのだろう。
なんて言うと、かっこえぇ…!と中二病心をくすぐられる。
実際、暇であることは悪いことではない。むしろ、私は暇が好きだ。
しかし暇を「潰す」ことは嫌いだ。暇は潰そうとした途端に、退屈なものに変わってしまう。
時間に追われているとき、時間が自分を隠してくれる。
時間を追えば、自分は時間の中に隠れることができる。
時間に追われることも、時間を追うこともない人間は、逃げることも、隠れることもできない。
ただ、ここにいる存在している自分を、じっと見つめることしかできない。
自分を見つめることのできない人は、暇つぶしとやらで、そこにただ存在する自分を隠そうとする。
暇つぶしは、自分隠しだ。
賑わしさと賑わしさの間にある、静かな時。
止まっているのではないかと錯覚してしまうほどの、ゆっくりとした流れ。
そこにじっと佇んでいられる人間は、静の気を養う。
きっと私たちは、時間の中に身を隠すことに慣れている。
だから、時間の中にいる時に、安心感をおぼえる。
私もそうだ。
暇に耐えきれなくなった私は、暇をなくそうと、運動を始めた。
運動は体に良い。毎日20分ほど、二重とびをする。
暇に耐えきれなくなった私は、1日1食を始めた。
主に野菜スープをつくる。栄養満点で、とても美味しい。身体も芯から温まる。
暇に耐えきれなくなった私は、夜更かしもせず、しっかりと眠るようにした。
お陰様で、日中は目がさえきっていて、朝の4時から元気いっぱいだ。
するとどうなったか。
運動を始めたら、身体の調子はますます良くなって、元気な時間が増えた分、さらに暇になった。
1日1食を始めたら、ご飯を作ったり、食べたりする時間が減って、身体も軽くて、さらに暇になった。
しっかり眠ることを始めたら、日中の意識は常にしっかりしていて、身体は絶好調で、ますます暇になった。
「あなたは今日で死んでします。今日が人生で最後の1日です。どうか有意義にお使いください。」
と、突然舞い降りてきた天使に、淡々と余命宣告をされたら、どうするだろう。
「はぁ?ふざけんなよ。」と憤りながら「ま…まじか…」と焦燥感に駆られながら、きっと暇は一瞬で消え去るに違いない。
余命宣告は、運動会のかけっこのスターターピストルのようなもので、時間は再び、私を追いかけるだろう。
きっと人は、命の有限性を提示されたら、限られた1日を精一杯楽しもうとするに違いない。
そんな中、余命宣告をされても、肝を据わらせて、じっとしていられる人間がいたら、なんだかとっても惚れ惚れしてしまう。
私たちが死んで、魂だけの存在になったとき、私たちは時間の概念から自由になるのだろう。
時間に追われることも、時間を追うこともない。その狭間で、暇を感じることもない。
時間があるのは、ここに生きている証拠だ。
暇で暇でどうしようもないのは、この身体を使って、まだ死ぬ前に、たくさん経験したいことがある証拠だ。
ここに命を感じて。
今日も私たちは確かに生きている。
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