山ごもり3日目で、弱い自分の嵐に見舞われる。[104/1000]

笠置山での山ごもり生活。1日1食、かぼちゃと玄米で過ごして4日目となる。

心のデトックスが始まった。次から次に弱い自分が出てくる。特にひどいのが食欲で、あれも食べたい、これも食べたい、と身体が悶え苦しんでいる。今朝、展望台まで歩いていく途中に、黒いジープが一台止まっていた。フロントガラスに、板チョコが置いてあって、窓は半分空いている。

 

「窓から手を入れたら、チョコレートを取れるかもしれない。」

そんなことを考える自分がいた。置いてあるのが、財布だったら何も思わなかっただろう。食べたくて悶え苦しんでいる今のチョコレートだったから、魔が差しそうになったのだ。

 

いかんいかんと我に戻り、再び歩くことに集中したが、私は人間の食べ物の味を知ったクマと同じだと思った。味を知ったクマは、人の食べ物を再び得るために、繰り返し人を襲うようになる。クマも、人の食べ物の味が忘れられなくなるのだ。忘れられなくて、我慢できなくて、人を襲撃するのだ。

 

人間に与えられた理性はすごい。この理性のおかげで、私はチョコレートのために車を襲撃しなくてすんだのだ。

野性でありながらも人間でいるぞ。

 

精神修養 #13 (2h/38h)

3日目の夕にして、弱い自分がどんどん出てくる。さつま芋の入った甘い蒸しパンが食べたい。パリッとした塩辛い煎餅が食べたい。寿司が食べたい。肉が食べたい。

もう山から下りてしまおうか。下りてしまえ。こんなことしてても意味がない。もう辞めてしまえ。どうせうまくいかない。

 

次から次へと、弱い自分が出てきては弱気な言葉をぶつけてくる。右胸の奥が痛い。これらはすべて、クマが人間の食べ物の味をおぼえてしまったように、過去に自分で蒔いた種なのだろう。

何度も弱い自分に飲まれ、気持ち悪さに反応して目を開けてしまった。その都度、目を閉じて、再び呼吸に集中する。

どれだけ飲まれても、今ここの呼吸に集中すると、すべては心が作り出した幻であることが分かる。ひらすら呼吸に集中して、ただ反応しないように努める。ただそのままを観察する。

 

それにしても、やっと山ごもりらしくなってきたじゃないか。とりあえず、3日目を生き切った祝福に熱々の珈琲をいただこう。

 

弱い自分が続々と出てくる今は苦しいが、それ以上に、自分がどうなっていくのか、好奇心の方が勝ってる。

何かを食べたいという気持ちは、毒出しの前兆にすぎない。美味いものを食べたいという渇望は心の一番浅い部分、表面上にあって、それが今、剥がれてきている感覚がある。

 

4,5年前、瞑想合宿に参加した時は、毎日のように唐揚げ定食を食べていたので、最初の2,3日は、唐揚げが食べたくて悶絶していた。(ホームシックも似たようなもの)

人には短期記憶と長期記憶があるように、心にも浅い癖や深い癖があって、習慣に馴染んでいる浅いものから表面化する。表面化した癖に反応せずにいると、自分の弱さがあらわれる。

「もう山を下りて楽になっちまえよ。1時間も車を走らせれば美味いもんが食えるぞ」と心がささやく。「お前はダメな人間だ」「お前は何もできない人間だ」と自己攻撃も始まる。心は美味いものを食べないと気がすまず、あらゆる口実を生み出し、私を山から引きずり降ろそうとする。

 

おもしろくなってきた。どうして山ごもりをしているかといえば、こんな弱い自分を表に引っ張り出して、性根を叩き直したいからだった。だからこうして弱い自分が出てくると、山に来たかいがある。弱い自分を出すから強くなれる。食事と同じ。ウンチを出さなきゃ、どれだけいいもん食べても、身体はよくなっていかない。

弱き自分よ、どんどん来るがいい。オレは食料か電気が尽きるまで山からは下りんぞ!

山ごもり生活はつづく!

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