肩を下ろして肛門を締めて下丹田に力を充実させる。それから身体の息を吐けるだけ吐き出して深い呼吸をする。この状態をクンバハカと言うらしい。インドのヨガに伝わる「もっとも神聖なる状態」というもので、実際にこれをしてみると心に生まれた恐れや不安といった妄念がたちまち遮断されるのを身をもって感じる。
消極性はエネルギーを体外へ分散させ、積極性はエネルギーを体内に集中させる。どういう仕組みかは分からないが、考え方としてはエネルギーが体外に分散する出口は肛門であるようである。肛門を締め、下丹田に気を再凝縮させるよう意識することで、バケツの穴が塞がれたように水が漏れなくなる。昨日も書いたように、気が分散すると身体を動かす(維持する)力が不足する。心に消極性が生まれたときは、まず肛門を締めることである。
心が宇宙エネルギーと肉体の摩擦の中に生まれる現象だと考えるなら、肉体は自分とは言えず心もまた自分とは言えない。肉体至上主義はもちろんこと、精神至上主義も偏っていると中村天風先生は言う。肉体が第一になることもなく、心が第一になることもなく、人間の尊い本体は宇宙の気であり、肉体も心も、気を地上に現象化させるための道具に過ぎない。道具にとらわれて、気に関して無関心であれば、バケツに穴が空いていても平気で外に漏らすことをしてしまう。気が外に漏れれば、本来の自分の力は発揮できなくなる。肉体でもなく心でもない。宇宙エネルギーという本体に無自覚であったがゆえ、特に理由はないのにぐったりした気持ちで時を過ごした経験はきっと多くの人がしている。
今よりも若かりし頃、何が本当の自分なのか分からないという悩みを抱えていた。あるときは野心に満ちて日本中をヒッチハイクで旅をしながらも、あるときは何かがあったわけではないのに、一人に会うことすら億劫になって引きこもりがちであった。別人のような自分の変わりように一体どれが本当の自分なのだと困惑しながらも、人に相談しても、どんな自分も自分だよという慰めに似た答えしか得られなかった。明日の自分がどんな自分なのか分からないのだから、人との約束をしても、その時の自分は元気でいられるかを考えてはいつも取り越し苦労をした。
気の浮き沈みの落差が大きい人間ほど、でたらめな自分に振り回されて疲れてしまうことも少なくない。どんな自分も自分。確かに間違ったことは言っていない。しかし本当に欲していたのは慰めではなく真理であった。
まだ修養の身であるが、既に色んな体験をしている。私は生来、偏頭痛持ちで一昨日の晩も、身体の冷えか仕事の疲れかで偏頭痛が起きた。少しでも体調が優れなければ、何もできなくなるくらい体調の変化には弱い。しかし、一昨日については仕事があって夕を越してもカメラを繋ぎながら人と話をしなければならなかった。カメラに映る自分の顔を見て驚いた。顔がなんとも活き活きとしており目にも力があり、声も穏やかで、とても偏頭痛で痛みを感じている人間の顔ではなかった。
肉体に生じた偏頭痛に気が飲まれることなく、気が肉体を上回る感覚があった。これは断食や水行と同じだった。空腹に気が飲まれれば飢餓となるが、気が空腹を上回れば人間は強くなる。水を浴びた冷たさに気が飲まれれば風邪をひくが、気が冷たさを上回れば、真冬に上裸でいてもどうってことなくなる。
まだ序の口に過ぎないのだろうけれど、宇宙の不思議な原理を繰り返し体験している。引き続き探求はつづく。恐れや不安に憑りつかれそうになったときは、クンバハカで撃退しちまおう。
精神修養 #119 (2h/245h)
心身の統一とは、気が一カ所に集中する状態を指す。消極的なことを考えて気が分散してエネルギー不足となる状態はその逆を指す。心が持つ宇宙エネルギーが身体から分散するとき、心身はバラバラになる。
心と身体が一致するとは、心が持つ宇宙エネルギーが身体に滞りなく流れる状態をいうのだろうか。瞑想をすると、心と身体が一致するような感覚をおぼえるのは、消極的な雑念の霧が晴れていき、散らばったエネルギーが戻ってくるからかもしれない。
[夕の瞑想]
朝書いたことは、半分であった。心を積極化させるならば身体も積極化させること。両方を宇宙の自然の状態に近づけることで心身統一はされやすくなる。心をいくら積極的にしようとも、だらしない姿勢をしていては、心が完全に引き締まることはない。
背筋が伸びれば気持ちも伸び、肩が落ちれば心は休まり、肛門が締まれば目に力が宿る。自然の法が身となるような心身統一とは、心と身体の両方から修養に励む必要があるのだろう。瞑想の最中、肩が落ち、ケツが締まり、丹田に力が入るほど、雑念が消えていく不思議を体験した。
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