命を捧げた人間に出会うから、命を捧げることをおぼえていく。聖人のようなギブ&ギブの精神は理想として語られるが、それを支えるのは神の力を無限に授かるほどの祈りの習慣ではないだろうか。母親が命懸けで産んだことを覚えている人間はいない。しかし、命懸けに生を授かった赤子は、命懸けに死んでいくことを運命づけられるのだ。
読書とは、命を捧げた人間と出会い、その魂を受け取ることである。労働とは、命を捧げる人間として、その魂を発することである。前者は静であり、後者は動である。私が読書と労働に価値を見出すのは、この魂の価値に他ならない。
【書物の海 #10】失楽園(下), ミルトン 作, 平井正穂 訳 (岩波文庫) (途中)
われわれは即座に死滅するものばかりと思っていた、―その日に訪れる死とは、そういう意味だと考えていた。ところが、意外にも、お前に対してはただの出産の苦しみだけが予告されたにすぎなかった、しかもその苦しみも、お前の胎内に実ったものの生まれ出る喜びによって、たちまちに償われるというではないか。わたし自身に対する呪詛にしても、直撃するどころか、いわば掠っただけで地面に落ちてしまった。わたしは働いて自分の糧を稼がなければならないとのことだが、そんなのは少しも苦にはならない。怠けろと言われた方がもっと辛かったろう。労働すれば自らを養ってゆけるのだ。
男にとって労働が意味するものは大きい。女にとって出産は大きな意味を持つ。アダムとイヴが犯した禁忌によって与えられたこれらの試練は、どちらも険しい山々を越えねばならぬが、山頂からの眺めまで奪うほど、神は無慈悲ではなかったということだ。怠けたい気持ちを生み出すのが肉体の性であるが、労働のある日々と労働のない日々を天秤にかけたとき、労働のない日々のほうがよほど耐えがたいものであろう。
怠ける日々は、動物の生と同じである。欲望の僕となり、本能のままに快楽、享楽、淫楽を貪るが、その反動として、罪悪、羞恥、不安、絶望、憤怒、頑迷を被ることになる。労働を奪われた人間が、その反動を和らげるためにできることは、新たな欲望で上書きすることである。これは回転運動となる。回転しながら、無限に繰り返すことで、生命は惨めに消費され、静かに絶望を深めていくのだ。われわれが動物程度の知能ならともかく、そこそこの知能をもってしまったばかりに、この回転は耐えがたい苦痛である。
労働は苦しい。社会を覆いつくす不条理に生命を蝕まれるからである。生命が完全に蝕まれれば、人間は死ぬ。鬱になる人間もいれば、自殺に追い込まれる人間もいる。彼らは人間として敗北を喫するのだ。歴々の戦士や武士たちのように、一つの生命が大きな戦の中で、儚く散っていくのである。戦いに生き残った人間だけが名誉を勝ち取り称賛を得る。例え、今日に戦がなくなろうとも、労働の苦悩と、その対価としての報酬は、古代より何も変わっていない。戦いに生き残った者だけが、勝者としてのを栄光を手にし、戦いに敗れたものはそれを失う。
皮肉にも、サタンの言葉に勇気をもらう。神に地獄へ突き落とされ、堕天使となったサタンが神に復讐を誓う言葉である。
「一敗地に塗れたからといって、それがどうだというのだ?すべてが失われたわけではない-まだ、不屈不撓の意志、復讐への飽くなき心、永久に癒すべからざる憎悪の念、幸福も帰順も知らぬ勇気があるのだ!」
サタンはこれほどまでに不屈不撓の闘志をもって神に挑んだのだ。よって人間も、これに見合うだけの不屈不撓の闘志がなければ、相手になるはずがないではないか。戦うのだ。好敵手サタンを相手にとり、あるときは神を相手にとり、戦うのだ。
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