死を迎える時すべては光の束となって生を賞賛してくれる[153/1000]

気持ち的には700日目くらいの投稿の感覚だが、まだ153日目。

漕いでも漕いでも進まない自転車に乗っているような感覚。漕いでも漕がなくても一定のスピードで進んでいく中、毎日の渾身の生命エネルギーを出力していくのはいかにも燃費が悪いようにも思えるが、むしろどれだけ漕いでも進む具合が同じなら、漕がなきゃ損だとも思う。

損得勘定に侵されれば、いかに漕ぐこと少なくしてゴールを目指せるかという思考に陥りがちになるが、命が燃焼しきらない感覚ほど後味の悪いものはない。どうせ今日という日も、昨日や一昨日と同じように、二度と戻ることの許されない夢となっていく。夢がどれだけ眩しく光輝くかは、間違いなく、漕いだ量に比例する。

楽をしたくてしょうがないが、楽をすることを魂は望んでくれない。こう考える度にストイックな生き方を自分に強いてしまうが、皆はどうやって生きているのだろう。

 

心配しなくても、今抱えている杞憂は、明日にはすべて光となる。明日について抱える杞憂も、明後日にはすべて光となる。10年後、20年後、30年後の杞憂も、死ぬときにはすべて光となる。死を迎えたとき、すべては光の束となって生を賞賛してくれる。

その瞬間を心の拠り所にしよう。今はまだ生きていて、光の中を生きている。それはどれほど尊いことなのだろう。

 

[夕]

朝書き終えれないまま仕事が始まり1日が終わった。既に今日の大部分は動かぬものとなった。運命の宿命化が果たされた。中身の質はともあれ、まずは今日を生き切った我々を祝福したい。

朝書いた通りすべては杞憂に終わった。鬱で引きこもっていた時、あまりに情緒が乱れていたので不安リストを自作していたことがある。

  1. 記入日
  2. 不安なこと
  3. 本当はどうなったらいいか
  4. 今できること(今どうなったらいいか)
  5. やらない方がいいこと
  6. 結果

心配事の9割は起きないというが、本当に9割ぴったし起こらなかったことは非常に興味深かった。自分の人生においてもこの法則が当てはまることを実験結果として得られたことは格言への深い信頼となった。

 

しかし今は、不安は忌み嫌うべきものだという前提そのものを土台からぶち壊したい。

リストを作って精神的安寧を得られることで救われる人間もいるかもしれないが、「お前は大丈夫だから、安心して死になさい」といって、リストに風穴を開けてくれる人間がいたら本当の意味で救われていたと思う。

不安を根こそぎ吹き飛ばしてしまうような人間は、いつも魂に生きている。魂の価値を心から信じているから肉体上の悩みなど、取るに足らないものだという気にさせてくれる。

 

数日前に書いた「大きな悩み」を思い出す。大きな悩みは時代を超えて、古今東西、すべての人類に等しく降りかかる、いつも時代との間に葛藤を生み出す魂の悩み。この大きな悩みに対峙するとき、小さな悩みはもはや悩みと呼ぶに相応しいものではなくなっている。

魂から世界を見るとき、こんな風に世界の見え方が変わってしまう。魂から発せられる言葉は厳しいかもしれないが、すべてを浄化する大きな愛もある。

 

「死を迎えたとき、すべては光の束となって生を賞賛してくれる。」

これもまた、魂から発せられた言葉かもしれない。

 

精神修養 #63 (2h/134h)

陰徳の価値を失えば、書き残した言葉以上の人間にはなれない。自分の言葉を飛び越えていかなければならない。跳箱に似ている。言葉の丈が高ければ飛び越えるのは困難であるが、かといって丈の低い言葉しか発しなければ、その程度にしか生きられない。

言葉が大きくなり過ぎないように加減をするのではなく、全力で残した言葉をもう一度噛みしめて、その言葉の丈を越えていきたい。言葉以上の生き方ができているのか、毎日気に留めなければならない。陽よりも陰。陽よりも陰。今この瞬間にも、陰徳の価値は失われる苦しさを自覚しながら越えて行かなければならない。

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