月光に吸いこまれるほど恋は忍ばれる[402/1000]

明け方、ひぐらしが鳴く。夕暮れにもまた、ひぐらしが鳴く。そうして1日がはじまり、1日がおわる。しばらくすると、月がのぼる。森の中からは木々に隠れてしまうので少しの間しか見ることができない。ひとり淋しさをコーヒーでごまかしながら、月が語りかけてくるその時を待つ。いや、それとも今夜は、自分から語りかけてみようか。そんなことを思う。

あの人は今、なにをしているだろう。元気にやってるか。何度自分から手紙を書こうと思っても、どうも時機がちがうようでためらってしまい、いつまでも想いだけが燃えつづける。このまま死んで墓に入ることを、唯物論者は絶対に許しはしまいが、私は秘められたものの価値を信じている。心に燃えつづける炎は、死んでもずっと永遠のなかを燃えつづける。聖火のごとくの清純さをつらぬけたのなら、それはそれでよくやったと思うのである。

なんでもかんでも、物質になることが正解とはかぎらない。夢が実現したといえば、いかにも聞こえがよく、99%の人間はそれはいいことだと信じる。しかし、夢は手にした途端、その神秘を失い、欲望との境界を消しさってしまう。そこにはまだ、憧れはあるだろうか。神秘はあるだろうか。神を地上に引きずり降ろす罪人との違いはどこにあるだろうか。

東の果てにたどりついた日本の祖先は、大海原の向こう側からのぼる太陽をみて、永遠に到達できない境地を悟った。彼らのまなざしは、永遠を貫いた。わからないまま、神秘に包まれた世界に胸を躍らせたにちがいない。生命を問い、宇宙を問うことの根源的な欲求は、何代になっても心の奥底で静かに燃えつづけ、人類は何万年も滅びることなく、人間の聖火をたやさなかった。この聖火が人間の美を生み出しつづけた。けっして手にすることのない、未知な部分が、人間を人間たらしめた。

なんでもかんでも、言葉にするものでもない。なんでもかんでも、わかろうとするものでも、わかったつもりになるものでもない。誰にも知られぬまま、誰にも見せぬまま、燃えつづける聖域だけが、人間の真の力を生み出しつづけるのである。この聖火を死ぬまでたやさないことが、魂の使命なのである。

孤独の夜に月光を浴びると、このエネルギーが充填されるようである。月光に吸いこまれるほどに恋は忍ばれる。

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