太宰治は「男には不幸しかない」といった。悪魔に魂を売りさばき幸福に生きるか、魂とともに不幸を生きるかである。純粋な人間として生きようと思うほど、死にたくなる世の中である。ここに第三の道があるとすれば、不幸のなかに武士道を見出すことである。不幸を糧とし、運命として丸ごと血肉としながら進むしかない。
ああ、私は弱い人間である。この世が地獄に思えて仕方がない。卑猥な社会に触れすぎるほど、この観念が強まり、どうしようもなく死にたくなるのである。今日はほんとうにひどく、クギを1本打ち損じると、すべてに八つ当たりをするように、己の弱さと生まれてきたことを嘆くあり様であった。身を地面に放り投げ、ぼんやりと空を見上げていると、黄金に輝く葉っぱがゆらゆらと揺れていた。自然は変わらず無垢である。故郷の清流の音色を葉っぱの向こう側に感じていた。
『幸福』は俺の宿命であった、悔恨であった、身中の虫であった。幾時になっても、俺の命は、美や力に捧げられるには巨き過ぎるのかも知れない。
ランボオ, 「地獄の季節」
冒頭にも書いたように、道はもう見えている。魂を売って幸福になるか、苦悩に食われて死ぬか、苦悩を食って生きるかである。例外があるとすれば、鴨長明のように世俗を捨て隠者になるか、もしくは頭を丸めて出家することであろう。この場合は、幸福も不幸もあるまい。魂を売って幸福になることは、もうごめんである。そこにあるのは盲目と虚無である。この30年弱、静かな絶望に浸りながらもごまかしながらなんとかやってきた。残るどの道に進むかは、まだ分からない。威勢よく、苦悩を食らい尽くしてやると言いたいが、いかんせん、今日一日、最悪な気分に浸かりすぎた。今にも倒れそうなくらいであるから、まずは米を食って元気を取り戻さねばならん。
家づくりをしながら、太宰治原作の「ヴィヨンの妻」を何度も思い出していた。不幸にしかならない作品であるが、重力を失った現世の生き地獄に死にたくなるときは、魂の重みを感じられる世界に触れて、生き心地を取り戻したくなる。太宰は何度も心中を試みている。作中の最後は「生きてさえすればいいじゃありませんか」という松たか子演じる妻の言葉で終わる。生きてさえすればいい。死にたくなる太宰は、そう信じたかったのだろうか。もしくは、そう言ってもらいたかったのだろうか。
今日も陽がおちた。森は静寂と暗闇に包まれる。小鳥の寝静まった後の森は、ほんとうに静かである。生きてさえすればいい。弱い人間が地獄を生きるには、そんなある種の諦観が必要なのかな。
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