人間は生れたときから、肉体という枷を背負っている。人はこの枷をどうにか解放できないものかと、旅をしたり、本を読んだり、芸術に触れたり、人に出会ったり、時には酒や女に溺れたり、暴食に耽ってみたりと、試みのなかで自由を問うのである。肉体は枷であるが、生きるためには肉体の欲望に従わねばならない。この欲望にわずらわしさを感じながらも、肉体の内に閉じこめられ、ほんとうは自由に憧れながらも、不自由のなかに幸福を見出すのである。
これは魂の話であるが、生命の野性についても同じである。人間には、原始的な野性があり、これを解放することを文明生活の鬱屈のなかに夢見ているのだ。だが、そこには危険が伴うので、大体の場合、肉体の安心安全に従い、日常のなかに閉じこめられ、ほんとうは野性に憧れながらも、文明に飼いならされるのである。
思想は危険なものである。思想は美を生むことはあっても、幸福を生むことはないのである。「男には不幸しかなく、女には幸せも不幸もない」と言った太宰治は自殺未遂を繰り返している。魂の救済や、生命の救済などは、幸福にとっては必要ないものである。肉体を否定、魂の価値を肯定し、社会の安心安全な檻を破り、野生に放たれることを理想とするからだ。だから、精神が衰弱して死神に憑りつかれれば、肉体の枷に嫌気がさし、魂の解放のために死んだほうがいいなどという安直な結論も時として導くのである。そういう宗派も歴史のなかではあったという。この物質主義の人間礼賛の時代に、そんなことをいえば危険思想として大問題となり、社会の表舞台からは即刻消されるだろう。
私自身、生命の故郷を死に感じるが、この肉体を授かり、地上に生まれたことに対し、宇宙から遣わされたと感じるのである。宇宙の意志によって生かされたのなら、この不自由な肉体に苦悩しながらも、死ぬまでその到達不可能な憧れに向かって、ただ懸命に生きるのみだと信じるのである。
今朝、15歳の青年が、縄跳びで8重飛びのギネスを獲得したというニュースをみた。高く跳躍したその姿をみると、肉体の不自由な制約のなかで、宇宙の憧れを体現しようとしているように思えた。私は8重飛びの青年に、生きることを教えてもらったようだった。肉体の枷を背負いながらも、夢や憧れに向かって、自由を獲得しようと必死に挑戦しつづけるのである。そこに死ぬまで終わりはなく、ただ永遠に伸びつづけるのである。
コメントを残す