宇宙の大海の一滴として生きている[391/1000]

日を記すと書いて、日記という。なんと儚い響きであろうか。私はだれかに読まれることを意図したり、考えをまとめるために言葉を書くことはあっても、純粋にその日に起きたことを記すということはしてこなかったのである。なぜなら、何気なく残した自分の行動が、地球や人類にとってなんのためにもならなかったという空虚な事実を目の当たりにすることが怖ろしかったからである。ただ桜が散り、セミが死んでいくように、命を垂れ流すようにして過ごした1日をかえりみて、自分の生命が無意味であることを知れば、その苦痛は耐えがたい。

しかし、ヒグラシのなく頃、すべてが時間の中に溶け込み、打ち砕けた波は大海に消え、闇が光を覆い尽くそうとするときになると、苦痛は和らぎ、大きな安堵を得る。どんな日も暮れる。なにもかも等しく死に向かっていく。儚く虚しいが、自分が世界に対し無力であり、無意味な存在であることの絶望も、宇宙の大きな力の前に、なぐさめられるのである。今日という日も、宇宙の大海のなかに消え、その内に刻まれていく。今日の自分は、今日死ねる。これが宇宙の情けではないか。

さあ、いよいよ梅雨も明けてしまった。晴耕雨読を言い訳に、雨の日はのんびり過ごしたが、これ以上言い訳もできない。ああ、なんと今朝の心は消極的だ。梅雨で心にもカビが生えちまったのかもしれないな。久々の太陽に当たること。梅干し乗っけて米を食うこと。野菜たっぷりの味噌汁を飲むこと。そして、ケツの穴を締め、肩を落とし、下丹田に気を充実させること。さあ、5分間だけでも深い呼吸をして、心を空っぽに、天の言葉を授かろうじゃないか。地上の悪魔のささやきに、心をまどわされちゃならない。お前は宇宙の戦士なのであり、宇宙の大海の一滴として、地上に生きているのだ。さあ、今日生きて、今日死のう。何も恐れることはない。

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