20歳のときにリベラルでなければ情熱が足りない。40歳のときに保守でなければ思慮が足りない。[387/1000]

日本よ、かつての武士道の誇りはどこへ行った。第一に恥をきらい、純情に恋忍び、名誉を重んじたあの気高き魂はどこへいった。憂国の士を演じるつもりはないが、今の私はあまりにも非力である。なんせ、ついこないだまで私自身、魂を奪われていた人間である。だが、いつまでも非力でいるつもりはない。この毒を消化しうる強い体を養生し、心を磨き、自分なりの刀を研ぎ澄ませたいと願うのである。物質文明にボロ負けしたこれまでの人生を恥じ、ここからは、森の孤独にて静かに鍛錬するのである。肉体疲労と精神毒におかされ、昨日はすっかりぐったりしていたが、たくさん寝て元気になった。今日からまた気合を入れて森づくりに励むのである。

 

チャーチルの言葉に次のようなものがある。

“If you are not a liberal at 20, you have no heart. If you are not a conservative at 40, you have no brain.”

20歳のときにリベラルでなければ情熱が足りない。40歳のときに保守でなければ思慮が足りない。

 

私は20代前半、日本の教育を変革するという情熱をもちながら教育現場で粉砕した。それから5年、自己存在を問いながら長らく放浪したが、ようやく深い深い部分から納得できたものは、日本の歴史や武士道にあった。これまでの自分は若かったと思い直すようになった。人間存在は、物質人生をおくるだけの虚無なものではなく、太陽をもとめ東の大陸に歩みつづけるような、存在そのものがロマンで、永遠に光を放ちつづけるような眩しい存在である。人間を物質として捉えるとき、なにもかもがおかしくなる。金や物がすべてとなり、安心や安全、保障や保険が第一となり、精神や誇りといったものは土足で踏みにじられるのだ。その結果として起こるものが人生の虚無や倦怠であり、鬱をはじめとするあらゆる病気、死を疎外した幸福が絶対の正義となった息苦しい世の中である。息苦しいのは、肉体や感情のみにスポットライトが当てられ、精神がなおざりになっているからである。しかし、歴史をみれば人間存在の本質は精神部分にあるといってもいいのである。太陽をもとめ、日本まで冒険するような野性あってこその、人間なのである。

 

私は人間生命の可能性を信じる。小さくは地上に堕ちながら、大きくは光となって現世をかけぬけるのである。さあ、今日も太陽がぎらついている。労働にとりかかろう。

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