生命は家を突き抜け、社会を突き抜け、国を突き抜け、自由に宇宙を旅したがっている。これが東洋的快楽主義の根幹にあると感じる。
エピクロスや鴨長明を、現代でいうミニマリストや引きこもりだという人間もいるようだけれど、その実態は全然違う。
私自身、延べ2年にわたって引きこもりとなったこともあるが、この期間はほんとうに苦しく、自然との合一とも、静的な快とも、程遠いものであった。東洋的快楽主義は一歩間違えると、厭世的、悲観的になる。当時はすこぶるこの世の中が嫌いでどうしようもなかったし、絶望に死にたくてしょうがなかった。似ている部分はあれど、哲学なき引きこもりは、心をわずらわせるばかりで、本来目指すべき心の静寂もあったもんじゃない。
鴨長明を読みながら、カギとなりうるのが捨てる力だと感じる。
長明が世間から離れて暮らそうと決めたのは30歳のころ。しかし、まだその頃は家をたてても、風でたおれないかとか、雪でつぶされないかとか、雨で洪水におそわれないかとか、憂いはやまなかったらしい。執着のある心を戒め、ほんとうに世を捨てられたのは、50歳のころ。彼は気に入る山での暮らしをはじめ、小さな家を建てて暮らした。それから長明は静かな暮らしを楽しんだが、62歳で死ぬころになっても、仏さまから見たら自分は俗と同じようなものだと言っていた。山で暮らしを楽しいと思う心さえ執着となりうることに気づいていた。
長明に妻子はなく、親もなくしていたので、世をすてるときの煩いは少なかったであろう。もし長明に妻子があったらば、「方丈記」は生れなかったかもしれない。それでも世を捨てるというのは簡単なことではないだろうし、長明の清純さがこの生き方を運命づけたにちがいない。
世のすべてを捨てることと、すべては捨てきれないことの間には、雲泥の差がある。全か無、0か100の思考の癖は認知の歪みと言われるが、ここばかりは、全か無、0か100であると思う。ミニマリストがいくら物を少なく暮らしていても、文明に取り込まれているかぎりは、金の不安も人間の悩みも未来の憂いも尽きないのである。捨てきるには覚悟と力がいる。社会の安心を捨てる覚悟、すなわち死ぬ覚悟である。
今日、世を捨てるとはどんなことを言うのか。国民に番号が振られ、戸籍が存在し、ガチガチに管理されている。勝手にそこらの里山に入って原始生活をすれば、所有者や近隣の住民に通報され、警察に連れ戻される。生命は国のシステムを突き破り、自由に宇宙を旅したがっているのだが、監視され、管理される窮屈さが現代にはある。その点、長明の時代は気楽だったかもしれない。人がばたばたと餓死するような不幸な時代であるが、人間は数字で管理されることはなく、生命はもっと自然と近くにあっただろう。いっぽう、100年後の人間を思うと気の毒だ。空にはドローンがあちこちに飛び回り、どこに行っても宇宙から監視されているなら、これ以上の窮屈はない。
ネットにあがってくる人間は、いつも順応主義者である。いくら彼らが、物欲のない生活をしているように見えても、彼らの深層をのぞいてみれば、見栄や名声といったものを捨てきれていない不自由をみる。私もしょせん、順応主義者の端くれだ。少しずつ自由に向かう実感はあるが、やはりこうして日々言葉を残していると、どう思われるかを気にしてしまう。
今日で368日目だが、増えたり減ったりを繰り返して、いまは数人にしか読まれていない。いっそ誰にも読まれないのであれば、潔く見栄を捨てて、いっさいのわずらいは生れないのだろうが、やっぱり数人でも読んでくれる人があるならば、なにかしらおもしろみのあるもの残したいという気持ちが働く。
私が長明に涙したのは、長明の生命の形をありありと感じたからだった。彼の生命は文明を突き抜け、宇宙を自由に旅したのだ。私は彼の悲願に泣いた。それは私自身がずっと探求していたものであり、自己の弱さゆえに到達できなかったものであった。私はそこに行きたい。この生命を文明から救済し、肉体をもったまま宇宙を自由に旅したいのだ。
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