尊敬する中村天風先生の中心思想である「絶対積極の精神」と、執行草舟先生の中心思想である「絶対負」が同じものであると直感した。積極の精神ではなく、”絶対”積極の精神である。負のエネルギーではなく、”絶対”負である。道徳による善悪は時代によって変わるように、我々の生きる地上は相対的である。今日では、差別はどこからどう見ても悪であるが、封建制のもとでは士農工商の身分から、武士道の誇りも生まれた。
古今東西、本当に価値のあるものこそ”絶対”である。宇宙の混沌とした崇高なエネルギーを肉体に充満させ、ここに生を全うすることが、神の道であり、魂の救済であり、時代に左右されない、生命固有の武士道を編み出す道である。
そのために提示される方法論は人によって異なる。天風先生は、観念要素の更改といって、心に溜まった消極的な考えを追い出すために、夜はとにかく心を綺麗にして気持ちよく寝なさいといった。自己暗示や打座やクンバハカというものもある。宇宙エネルギーの宿る言葉を重んずる。草舟先生は、書物を通じて偉人の魂にたくさん触れなさいという。時の摩擦に耐え抜いた書物は、相対世界に左右されない絶対の真理を含んでいる。偉人の魂と兄弟のように親しむことで、真理を掴もうとするのである。
私は「断食」と「歩く」を方法論として小さく添えたい。インドを独立に導いたガンジーは、自国内でヒンドゥー教とイスラム教が争いが起こった時、断食によって争いに対抗した。争いが止むまで断食はやめないというガンジーの断食は18日間に及んだ。人々はガンジーに心を打たれ、争いは奇蹟的に止まる。ガンジーは外に火の煙が上がっていないのを確認して断食をやめた。聖書を読むと、イエスも荒野で悪魔に誘惑されながら40日の断食を行っている。なぜ偉人たちは断食を行ってきたのか。
彼らの断食は、今日健康が目的で行われる断食とは、180度の真逆に位置する。健康が目的で行う断食は、突き詰めれば肉体のために行っているのであり、肉体の癒しを求める今日の”スピリチュアル”と似ている。スピリチュアルとは、本来は霊性のことである。聖書の言葉を借りれば、「人はパンのみにて生くるものにあらず」ということである。つまり、宇宙の絶対の混沌を崇拝すること。偉人たちの行った断食は、そのようなものであった。ガンジーは天上のパン(平和)を欲するために地上のパン(断食)を捨てたのだ。だからガンジーは、宇宙の魂を掴んだ、マハトマ(偉大な魂)と呼ばれた。
「絶対積極の精神」や「絶対負」のエネルギーは、空っぽになった胃に流れ込んでくるのだと思う。天風先生は、眉間から入り込んでくるというが、入り込んできたエネルギーは空洞となった肉体に充満するのではないだろうか。根拠はない。その神秘を直感するだけである。
神を求めるものは、道を歩いた。世界がまだ霧におおわれるとき、人類は未知の世界を歩くことで神を知ろうとしたにちがいない。動物としては、獲物や食べ物を探すために歩いただろうが、人間としては根源を問うことから始まったと思うのだ。
今日では、1日1万歩も歩けば、上出来だと褒められる。しかし、これは物質社会の言うことである。物質面(健康面)だけを見れば、1万歩で十分かもしれないが、これは言ってしまえば、動物部分に対応するものにすぎない。私はここからさらに、もう1万歩歩くことに宇宙的な価値があると信じる。これもまた、何の根拠もないただの直感である。肉体が十分だと感じるのは1万歩であるが、さらに1万歩歩くことで肉体超越が起こり、宇宙エネルギーが体内に流入すると思う。
数日前に、たまたま一度だけ、諏訪湖を1周して2万歩歩いただけの私には、こんなことを書く資格はまだないかもしれない。あくまでこれは仮説としてとどめておきたい。2万歩歩くのに、3時間かかった。これを100日間続けたら、どうなるのだろう。なんだかとんでもないことが、起こりそうな予感がする。
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