インドの古典であるギーターに、「私は人間における雄々しさである」という聖バカヴァットの言葉がある。
私はこの言葉に感銘を受けた。魂とは雄々しいものであり、自己の内から雄々しさを開花させることこそ、人間の宿命だと感じたからだ。自己が女々しいうちは鍛錬が足りない。雄々しくあれるか、つまり、誇り高く、かっこよくあれるかという一点だけを志せばよいのだと、これまで触れてきた魂を思うと、腑に落ちるものがあった。
歴史に名を残す偉人に、女々しい人間はいない。十字架に磔にされて死んでいったイエスも、最後まで雄々しく、愛の神を説き続けたから、弟子の心を打った。乃木希典が明治天皇に殉死し、乃木希典の妻もそれに同伴した話を思い出すと、いつも胸が締め付けられる。雄々しさは、男性だけのものではなく、女性のものでもあり、男性的な雄々しさと、女性的な雄々しさがあるだけだと思う。戦時、夫や子を戦争に送り出し、孤独に戦っていた婦人を思うと、ここにも悲哀に裏付けられた高貴な強さを感じる。
雄々しくあることを考えるとき、いつもある男を尊敬する。私はこの男の、女々しい部分をただの一度だって見たことがない。見えないところで歯を食いしばって生きている人間ほど、かっこいいものはないのだし、これこそ武士道だと思う。そういう意味で、ブログを書いている人間は、既に劣っているのだと認識する。自己の苦しみを洩らして他人に認めてもらうなど本当は恥である。
時代の言葉に、自己肯定感というものがある。私はこの言葉が嫌いである。人間から魂を奪った、悪魔そのものだと思うからだ。
魂を持つ人間にとって、自己を否定することはなくてはならない。卑怯で恥ずべき自己を否定することだけが、女々しさを跳ね返し、雄々しき理想に近づく手段となりうると思うからだ。乃木希典は天皇に死なせてくれるよう申し出るほど、自己を恥じた。ドミートリイ・カラマーゾフも、自己を卑劣だと散々否定し、もがき苦しんだ。自己否定の苦悩に人間の宿命的な弱さがあって、しかし同時に、この堕落の中に人間の美がある。
魂が失われたとなれば、話が変わる。美学のない人間にとって、自己否定は自己を苦しめるだけの厄介者にすぎない。魂と一緒に、自己否定の意味も失われた。幸せには自己肯定だけあれば十分となる。イワン・カラマーゾフは、人類から不死の信仰が根絶すれば、不道徳は何一つなくなって、すべてが許される、と言った。私は自己肯定感という言葉の中に、これと同じ卑猥さを感じている。
さあ希望の言葉はどこにある。救いの言葉はどこにある。
毎日、救いの言葉を求めては、この雄々しき山の険しさに、絶望を与えられる。
この絶望が、神様からの愛だと受け取っていいのだろうか?そう受け取らなければ、現実はあまりにも厳しすぎる。
しかし、厳しさに打ちひしがれるほどに、愛に生きたいという思いは深まるばかりだ。
ああ、きっとこれこそが何よりの希望かもしれない!!!!!愛だけが、生きる希望だ。
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