スマホを手放して数日経って思うこと。[227/1000]

現世を突っ切っていく。現世に堕ちれば便利なものに魂を飲み込まれる。便利じゃなくてもいい。普遍・不変の価値を追求する生き方をずっとしたかったのだ。便利なものに囚われた魂を解放すると、本当に清々しい気持ちになる。物に魂を奪われてたまるか。埋もれさせてたまるか。

 

スマホを手放して何日か経った。何日かは正確におぼえていない。それくらい大した煩悶は生まれず、想像に反して肉体は無抵抗であった。スマホを手放すと、スマホから受けていた恩恵のほとんどが、現世的な価値であることがはっきりと分かった。現世的な価値とは、快楽や遊興を始めとして、その場では気分を高めたり、休めたり、得をしたりするが、時が経てば何も残らないものである。「現世の肉体にかぎった価値」ともいえる。

こうした現世的な価値を積み重ねることは、刹那的な人生を生む。その刹那から生まれる生の虚無を誤魔化すように、さらなる刹那を重ねる。これを肯定するか否かは個人の話であるが、私はこの虚しさは魂が望まないものだとずっと感じていた。望まないと感じながらも、現世的な価値を手放すことは困難であった。

 

スマホは現世的な価値が詰まったものだった。情報にすぐに辿り着けるのはかなり便利である。しかし、この情報はその場の肉体生存を保証するためのものにすぎず、人生に残るものかと問われれば、残らないものだった。つまり便利で快適でも、後から見返した時にはすっぽりと記憶の穴から抜け落ちてしまう。うまい使い方をすれば、垂直的なものにもなり得るかもしれないけれど、何でもできることを逆を言えば、純粋性の中にノイズを生みやすいということなんだろう。

 

生活は不便になったが、精神にとっては修養になっている。現世に束縛されていた魂が解放されたような清々しさだ。魂が垂直方向に伸びようとしながらも、水平方向に引き留められる感覚があった。それが肉体が執着する現世的な価値であることは言うに及ばない。現世的な価値と、普遍・不変の価値は、拮抗して両立しえないものなのだと思う。その狭間に生まれる大きな緊張は、人間を続けるかぎり死ぬまで苦悩するものかもしれない。自然の法や人間の美徳は、垂直方向に伸びようとするが、物質主義が欲をかきたて、卑しさや恥を肯定し、水平方向に引っ張っているというのが、現代構造かもしれない。

 

魂が垂直方向に伸びようとする圧力が高まるほどに、現世的なものに価値を感じなくなる。それが今回、スマホを手放しても何の煩悶も生まれなかった理由だろう。引きこもり鬱だった頃を思い出す。現世に完全に閉じ込められた状態からいきなりスマホを手放そうとしても、肉体は拒絶反応を起こしたはずである。最初はやせ我慢でよく、焦る必要もなく、少しずつ魂を解放すればいいのだろう。垂直方向に伸びようとする圧力が高まることは、身をもって体感できる。その感覚の中に勇気も愛も友情もあるように思うのだ。

 

精神修養 #137 (2h/282h)

本当に身体の状況を正確に把握できているか。

肩を下ろし、肛門を締め、下丹田に気を集めるという3点を同時に行うことが、天風先生の教えるクンバハカであるが、一番盲点となりやすいのは肩である。肩を下ろすことは一番簡単なので、つい下半身の集中ばかりに気を取られている。しかし、肩が下ろされていると思っていても、実際肩を下ろそうとしてみると、そこからさらにストンと落ちることがある。特に冬場の今は、寒さから身を守るために、肩が上がりやすい。下ろしているつもりでも、無意識のうちに上がってしまうのが肩であって、この無意識のおかげで、日常的に感情に追い回されることが実際に起こっている事だろう。

クンバハカは神経反射の調節と天風先生は言うように、肩に力が入れば神経を通じて肉体は緊張し、感情にまで影響を及ぼすのが人間の構造ではないか。とにかく3点の意識である。肩を下ろすことも忘れずに。

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