文明も時代の道徳も突き破らなければ、生命は死ぬ。②[257/1000]

「道徳を突き破ることで生命が蘇る」といっても、道徳とはなんだという疑問が常にある。道徳を基盤にして、社会の秩序は保たれている。そこに一撃を食らわすことは、悪であることは間違いない。社会の法に抵触すれば捕まるし裁かれる。そうしてイエスは裁かれ、無抵抗のまま十字架に磔にされた。しかし、社会的には無力でも、生命的には現世に捕らわれず永遠の自由を生きたと言える。

 

葉隠に「本気にては大業ならず、気違いになりて死に狂いするまでなり」とある。道徳を破ることは、頭で考えてやるようなものではないかもしれない。道徳は破ろうと思って破るものではなく、魂に生きる覚悟を持ち、何かを貫徹しようとしたときに自ずと破れていくものではないか。なぜならば、魂は永遠のもので、現世に捕らわれるような代物ではないからだ。魂の自覚が生まれ、心魂となって肉体に宿れば、自ずと生命は現世の枠にとらわれなくなる。現に、日々魂に触れていると、そんな感覚が少しずつある。少しずつ宇宙的存在になり、(現世から見れば)狂っている人間になっていく。

 

道徳がなければ、道徳を破ることはできない。やはり道徳とは何かという問題は、一度考えてみたい。そう思って、ニーチェの「善悪の彼岸」「道徳の系譜」を読み始めたものの、難解すぎて撃沈している。この命が果てるまでに、理解することはできるだろうか。ここでもニーチェにぶつかって、ひたすら体当たりをしていきたい。

 

奴隷道徳と貴族道徳について。

奴隷道徳は、自己犠牲を強い、禁欲的であり、卑しさを嫌い、弱さや苦しみを美徳とし、慈悲や同情に重きを置く。

貴族道徳は、ヨーロッパの騎士道や、日本の武士道のように、高潔さや勇気、誇りや名誉を重んずる。第一次世界大戦の撃墜王、リヒトホーフェンのような、気高く男らしいものだと思う。

貴族道徳も誇りのためなら、禁欲や自己犠牲を厭わないように、両者は対立するものではなく組み合わさる。キリスト教の教えは奴隷道徳的であるが、聖書の教えを実践することは貴族道徳的である。

 

私自身、幼少から学生時代にかけて、軍隊のようなテニス部に身を置いていたことから、絶対服従で禁欲的な奴隷道徳が根底に養われたように思う。一方で、戦いの中に反骨精神を見出し、インターハイに出場した。強くあることの誇りが貴族道徳を生み、今日、鍛錬を通じて武士道に生きようとする気概が生まれたように思う。至らないことばかりであるが、道徳心があるから、そこに向かおうという気持ちが生まれる。

 

奴隷道徳といえば、差別的であるが、立派な道徳であることには変わりない。私は奴隷道徳をなしでは生きていけない弱い人間だと自覚する。痛みを分かつためには、奴隷道徳が必要だ。道徳を失うとき、人間は人間ではなくなって動物になる。道徳を失うことで道徳を破る体験を失う。道徳を破る体験を失うことで、野性を失うからだと思う。

 

道徳を破るには、道徳がなければならない。「道徳は破るためにある」という言葉の意味が、ようやく腑に落ちた。文明から魂を救済し、生命を活かすには、この道徳を破るしかないのだ。道徳が時代を支えていることは間違いないが、これを守ることで、生命的に何の意味があるだろう。飼いならされるほどに、人間の野性は閉ざされていく。

道徳を説くつもりはなければ、道徳家になることも目的としない。むしろ、道徳を破って生命を躍動させ、人間として死んでいくために、道徳を必要とする。道徳のないところに、道徳を破っても、何の意味もないというのは、道徳を破る瞬間の苦悩に、人間が宇宙的存在となる価値が凝縮されているからだろう。凝縮された圧力の中に、生命は爆発する。

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