苦しみに食われるか、苦しみを食らい尽くすか。②[241/1000]

ドストエフスキー「罪と罰」を読んでいると、運命の重さに潰されそうになる。いつの日か、文学を読んで苦しめないことをを嘆いたこともあったが、気づけば苦しんでいる自分がいる。

 

運命に立ち向かうことは、生きるか死ぬかである。死ぬ気でやって、死ぬ気でやった後も、うまくいくことを死ぬ気で神に祈るのである。どこまでも祈る姿が美しいのは、自分が生贄になることも厭わず、神に自分のすべてを奉げる姿が純粋だからだ。祈りは無垢な少女のようだ。

橋の上から身投げする女性が登場する。彼女には”無力感”を感じるが、祈りに似た信仰も感じる。身投げする女性は、元々は、自分のすべてを神に捧げる純粋な人間だったと思う。襲いかかる不幸にも立ち向かい、祈りを捧げて生きてきたが、ついに苦しみに耐え切れず、運命に敗北した。運命に敗北したとき、神に捧げる自分をそっくりそのまま、川に投げ出した。

 

動物として生きる者には運命がないが、人間として生きる者には運命がある。運命はいつも人間に襲いかかり、人間を潰そうとする。運命に潰されそうになる中を、耐え忍び、乗り越えることに、人間らしい強さと弱さがある。神との対話に葛藤しながら、潰されそうになるから、友がいて、愛する人がいる。運命が重たくて、人間として生を全うするのが大変だから、労い合って生きている。

 

苦しいが、苦しいのは運命だ。苦しいほど運命に立ち向かっている証だ。惰性に生きられたらどれほど楽だろうかと思うが、もうそんな生き方を赦せない人間だと、自分でも分かっているだろう。それが赦せないから、あえて自分に厳しい生き方を強いて、毒を食らって苦しんでいるんだろう。しかし昨日も書いたように、毒に食われるか毒を食うかのどちらかだ。運命を食らい尽くせ。運命に食われて死ぬのは自殺だが、運命を食って死ぬのは誇りだ。

愛する人のために死ねたら、どれほど仕合せだろう。純心な人間の歩む道だと信じて、苦しみを超えて行け。

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