やりたいことも、好きなことも仕事にしなくていい。[230/1000]

人との関係において、束縛だけが苦しみを生み、苦しみだけが愛や友情を生む。なぜなら愛や友情は血の通いであり、血は苦しみの中にしか生まれないものだからである。束縛のない関係は自由ではなく希薄である。「求めよ、さらば与えらえん。」キリストのこの言葉も、人間関係の束縛を指しているようにも思えてくる。親子の関係にあっても、友人との関係にあっても、師弟の関係にあっても、恩と、恩返しを求めることでいい関係は生まれる。要求は厳しいが、厳しさに応えるから強く立派な人間となっていく。厳しさは祈りである。

 

やりたいことをして、好きなことを仕事にすることが是とされる風潮がある。

かつては、この考えを信じていたが、「自分」が大きくなりすぎた時代のまやかしだったと今は思う。自分中心の世になれば、自分の好きなように生きることが正義となる。しかし、自分中心に生きるという前提が、そもそも人間の美学に反していると武士道を知って気づいたのだった。この気づきは現在、好きでもないことを仕事としているうちに確信に変わりつつある。仕事は必ずしも、好きなことである必要はない。

 

なぜ、仕事が必ずしも好きである必要がないかを問えば、これもまた恩に尽きる。

私が今の仕事をするようになったのは、鬱と引きこもりだったとき、友人に拾ってもらったのがきっかけであった。立ち上げられたばかりの小さな会社には、私以外に3人いた。その内、私の鬱を知っていたのは友人だけであったが、友人の面目を潰さないように状態は隠して働いた。数カ月して、友人と別の一人が一緒に働けなくなり、私と現社長の2人だけで仕事をすることになった。友人が去った後も、依然と心身不安定、役に立たないような状態で、いつ追い出されても文句は言えないと感じていたが、社長が私を追い出すことはなかった。

 

すべては結果論であるし、追い出されなかったのは単純に人が必要だったこともあるだろう。それを含めても恩を授かったと感じた。それから少しずつ体調は回復し、武士道と出会い、恩返しと忠義だけで働こうと心を日々改めるうちに、少しずつではあるが、仕事において責任を負うことを厭わなくなり、身を挺することができるようになった。今思えば、これが葉隠のいう「死身」の状態だったように思う。

身を挺すると不思議と仕事は楽しくなった。責任を負う大きさに比例して歓びを得られるのは、どんな仕事にもある働くことの醍醐味である。動機の中心に自分がいないことで、与えられた仕事に対して自分の好悪の感情で左右されることはなくなった。自分の感情など大した問題ではなくなると、与えられたことにただ立ち向かわんとする気概だけが生まれていたように思う。

 

本当にすべて結果論であるが、幸せと仕合せの違いが理解できる。幸せを欲すれば、自分のやりたいことや、自分の好きなことをしなければならないという思考に絡まれる。一方、仕合せは自分のやりたいことや、自分の好きなことなどは、大した問題ではなく、恩を感ずる人間に対して忠義を尽くすという一点に尽きる。主に仕える武士が切腹を命じられて、可哀想だと現代の人間は捉えるだろうが、それは自分中心主義に偏った感覚である。仕合せは人間の美学であり誇りであり命の賞賛である。

 

人間の美学を信じ、恩に生き、忠義に生きることは、現代から忘れ去られた古くさい生き方かもしれないが、我々が人間である以上、時代の波に飲まれよと、意志あるところに生き方はある。そんな普遍・不変の価値を大切にしたい。かつて偉大な人間たちが貫いてきたように。

 

精神修養 #140 (2h/288h)

冬の早朝瞑想は、寒さと眠さとの戦いでもある。環境による反作用の力が大きく、言葉一つから心に隙を作れば、瞬く間に飲まれてしまう。寒いのは嫌だななどと弱気な言葉を心に語らせれば、瞑想を維持できなくなる。反作用を上回る作用を必要とする。その力の根源は言葉と心にあると信じる。

大きな反作用の下で瞑想状態に入るならば、それは小さな反作用での瞑想よりも価値があるといえるだろうか。反作用に負けるうちは、手の施しようがないと感じてしまう寒さや眠ささえも、作用の力が上回ればまったく苦にならないものになる。

寒さや眠たさという反作用は、それ自身に質量負担があるのではなく、自分の作用に対する差分によって生じる相対的なものに過ぎない。それを覚えておこう。

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