3年ほど前、原付とテントだけで生きていた頃、心の言葉を伝える旅みたいなことをしていた。
当時の私が心の底で感じていたことは、「ごめんなさい」と「ありがとう」の2つだけで、その言葉をしかるべき人に会って伝えることが、私が一番にすることのように感じていた。
当時の私は、それを「懺悔の旅」と表現していた。(爽やかな朝に似つかない、とっても重たい響きでごめんね…..許して…..!)
雨が降りつける中、原付が坂道のカーブでスリップして転倒したときも、神様に試されているのだと感じていた。
傲慢な自分は過去に大勢の人をを傷つけた。転んで痛かろうと、原付が壊れようと、その痛みはお前が過去に傷つけた人の痛みだ、だからその痛みをちゃんと知りなさい。と言われているような気持ちだった。
どうして今になって、そんなことを思い出しているのかと言うと、僕がよく見るyoutubeで、塩沼亮潤さんの「歩行禅」という本が紹介されていた。
歩行禅を一言で言うなら、「ごめんなさい」と「ありがとう」を心に思いながら歩くというもので、まさに私が3年ほど前にしていた心の言葉を伝える旅とまったく同じだと思ったのだった。
今の私は当時の私とはまったく違う感覚で生きているので、今改めて「ごめんなさい」と「ありがとう」を心に思うと、どんな感覚になるのかとても興味がわいた。早速私は、諏訪湖の周りで歩行禅をすることにした。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・
ごめんなさいと思ってみたものの、このまま思い続けると、鬱になりそうな気がした。
もし、横でごめんなさいと歩き続けている人がいたら、「もう謝んなくていいよ。そんなことよりも、何か楽しいことして一緒に笑おうぜ」と言いたくなるだろうなと思った。
しかし、ごめんなさいと思うことの意味はそういうことではないことも分かる。3年前、懺悔の旅をしていた私は、自分を痛めつけて、痛みを知ろうとしていた。あらゆるハプニングや、豪雨に打たれながら原付で走ることは、痛みを知るためにあると思っていた。
「人の痛みを知ろうとすること、人の痛みを分かろうとすること」
これが「ごめんなさい」と言葉を発する真意なのだと思う。人を傷つけた経験は、そのためにあるのだと思う。
・・・でも、やっぱり「ごめんなさい」と謝り続けることは、その瞬間瞬間が、苦しみや、痛みそのものだから、隣で謝り続けている人がいたら、
「もう謝んなくていいよ。お前は自分が思っている以上に、十分謝ったんだぜ」って私は伝えたいな。
3年前、雨の中、原付で事故って、ぐちゃぐちゃになってた私は、そんな言葉をかけてもらえたら、きっとボロボロ大泣きしたと思う。
一方で、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・と思うことは、とても気持ちが良かった。美しき諏訪湖。野原に踊る三つ葉のクローバー、隣でそれを見守るシロツメクサ。道路のわきに見える、焼肉屋の美味しそうな看板。社会のために今日も仕事に向かう人々。
目に入るすべてが、ありがとうと思えた。
思えば、3年前の懺悔の旅は、「ごめんなさい」と「ありがとう」を大切にするつもりだったけど、実際はごめんなさいしか言っていなかったなと振り返った。(そもそも旅の名前が「懺悔の旅」ってなってるくらいだ笑)
ごめんなさいが、人の痛みを知ることなら、ありがとうは・・・・・・
・・・なんだろう?
私自身、この問いにもう少し向き合いたいたいので、今日は、そんな問いを残したまま、記事を終わろうと思います!
歩行禅も、形や様式より、大切なのは祈りそのものだと思うので、自分の心がそのまま感じていることを大切に、興味ある方はぜひやってみてください!
皆さまにとって、「ありがとう」とは、何でしょう?
お考えも、ぜひお聞かせください!
ではまた明日!ばいばい!
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