一人でいることは気楽であるが、同時に厳しくある。人といることは楽しいが、同時に軋轢に苦悩する。
似たような感覚を私自身、ブログ投稿に感じてきた。人目に触れないところで黙々と書くことは孤独の厳しい戦いを強いられる。しかし裏を返せば、人との軋轢を避けることができる楽があった。
「一生忍んで思い死にするこそ、恋の本意なれ。」
絶対に誰にも見せることなく、また存在すら明かすこともなく、一人で書き続ける日記はその人にとって「聖域」となる。人目につかないところで、忍ぶように書きつづけるから言葉も、その人自身も、美しいのではないか。
真冬の原付生活の時に日々勇気を貰っていた、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、誰も見られることのない静かな病室で生まれた。この詩自体は宮沢賢治の没後に発見されたものだ。私はこの詩に何度も救われたが、この詩が美しいのは、閉ざされた病室で独りになった宮沢賢治の涙から生まれたものだからではないのか。私はいつもその涙を感じ取り、力を貰っていた。
人目にさらされるほど、失われる感覚がある。観光地には壮大で派手な景色はあるが、美しさに涙を流す人間を私は見たことがない。多くは必死に写真を撮る。逆に人知れず場所で偶然に見つけた夕陽や野花に感動するのはどうしてだろう。それは涙が、聖域でしか成し得ない孤独な営みだからではないだろうか。
美しさは聖域から生まれるものであると同時に、聖域でしか受け取ることができない。忍ぶ人間が美しいのは、絶対に誰も寄せ付けない寂しさを抱えているからではないか。聖域はいつも孤独の中でしか生まれない。
人に晒すことを前提につくられたものは、他者への迎合が必ずどこかで混じる。資本主義ではそれは合理的と判断されるが、計算された美しさは、美しさと呼べるのだろうか。
こうして私自身も自分の言葉を人目に晒している以上、自分のために書いているとはいえ、既に失われた美しさがあると感じる。没後に発見された「アンネの日記」のように、孤独に包まれた言葉はどこまでも純粋だ。
「一生忍んで思い死にするこそ、恋の本意なれ。」という言葉が葉隠にある。死ぬまで言葉を一人抱えて持っていけたらどれほど純粋だろう。
私はその価値に焦がれながらも、139日目の今日も言葉を綴っている。
孤独な美しさと引き換えに、魂の交流を欲している。現世の人に。未来の人に。
精神修養 #49 (2h/106h)
瞑想の目的が、書くことにすり替わっていないだろうか。
本来であれば、こうして記録を残すことなく、座り続けることだけが一番自分のためになる。しかし、日々書くことがあったからここまで続けられてきたことも事実だ。
ここでも、肉体と魂が拮抗している。
書くことは肉体にとって得である。しかし本当の目的は魂の鍛錬であって、魂にとっては書くことは雑念の対象でしかない。
[夕の瞑想にて]
肉体の動物として生きるか、肉体を超えた人間として生きるか、これを瞑想中ずっと問われている。
ここまで瞑想してきて、言語化できたことは数多とあるが、瞑想の本質を得ていると感じるのは、「瞑想は魂が肉体を超越するために行う」ということだった。
肉体と魂の拮抗作用を静観することで、魂の鍛錬が行われる。だから瞑想中は足が痛くても絶対に動かない。身体が痒くてもかいてはいけない。
瞑想には癒しを求めるものもあるが、私は瞑想に厳しさを求める。この厳しさの向こう側にしか、本物の愛はないのだと今の私は確信している。
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