岩手は盛岡の隣町の、雫石(しずくいし)にいる。
昨日、岩手山からの湧き水をくみに行くと、クレソンがたくさん生えていた。クレソンは「野菜の王様」と言われていて、栄養価がとても高い。
湧水をいただいた後、クレソンを両手いっぱいに採集した。片手で1食分のサラダになるので、これで2食分となる!
クレソンが生えている時期は、この辺りに住めば、水にも野菜にも困らなさそうだ。いつしか、お金をかけずとも食料調達できるような、日本全国の山菜マップや、クレソンマップを作ってみたい。早速、青森の「グダリ沼」につづいて、盛岡の「生出湧水」がクレソンマップに追加された。
山ごもりを始めた頃には30Lあった水も、5日後には10Lになっていた。1日4L使った計算になる。
お米を炊くときに水は使っていたけど、実際はほとんど飲み水として使った。1日3Lくらい飲んでいたと思う。
この5日間は、砂糖断食を行っていて、甘いものが欲しくなった時は、白湯や珈琲を飲んでやり過ごした。珈琲は1日5杯飲むときもあった。
不思議と甘いものが食べたい気持ちは、これでおさまって、糖分欲しさに苦しむことはなかった。
私の場合、身体が甘いものを欲していたときは、①喉が渇いて、②ストレスを感じて、③退屈しているときだった。
だから甘いものを取らずとも、水分と、安らぎと、楽しみがある珈琲を飲むと、身体も気持ちも落ち着いたのだと思う。
【精神修養 #1 (1.5h)】
山から下って初めての瞑想。
木々が揺れる音は、車の走行音に変わって、ハチがブンブンと飛ぶ音は、人の声に変わった。
自然の中の方が気持ちよく瞑想できるが、気持ちよくなることや、癒されることが目的ではない。
本質はどこでも変わらない。ただ自分がここにある。心地よさに執着せず、痛みにも反発せず、ただ呼吸に集中し、そのままを観察する。
鋭い意識でいられたのは、長くて3秒。大体は1秒も経たないうちに、意識がぼんやりとし始める。
その都度、意識を鋭い状態に戻そうとするが、また1秒もしないうちに、意識がぼんやりとする。これを5回くらい繰り返した後、意識を持っていかれた。
4年前の瞑想合宿のときは、20~30秒くらいは意識を鋭い状態に保てていた。
使わない刃物が錆びるのと同じで、意識も使わなければ、鈍くなる。だからこうして、研いでやる必要がある。
瞑想をすると、生活が引き締まる。精神修養は日々の実践。
歳を重ねるごとに元気になる人と、歳を重ねるごとに弱っていく人がいる。歳を重ねるごとに若々しくなる人と、歳を重ねるごとに老けていく人がいる。
歳を重ねるごとにカッコよくなる人と、歳を重ねるごとにダサくなる人がいる。歳を重ねるごとに美しくなる人と、歳を重ねるごとに醜くなる人がいる。
先日も紹介した「食の多少は運命をも左右する」で有名のルイジ・コルナロさんは、歳とともに声が強く大きくなっていったという。晩年でも孫に負けないくらいのハリのある声で歌っていたとか。
いま幸せな人は、どこかしらの点で、自分を更新しつづけているように思う。どれだけ歳を重ねても、今この瞬間の自分が、自分史上の最高の状態にある。
だから、今ここの自分を無条件で受け入れて絶対的な自信をもっている。あの頃はよかったとか、昔はああだったとか、過去の自分を見せびらかすことも、過去に憂うこともしない。
瞑想をはじめて、自分の精神が以前よりも鈍くなっていることを目の当たりにした。
鬱のときピアノを1から初めて、3か月間猛特訓したら、ショパン、ベートーヴェン、モーツァルトを弾けるようになったが、練習をしなくなると、すぐに指が動かなくなって弾き方も忘れてしまった。
「一度習得したら、自分のものになる」と思っていたけれど、それは慢心だった。技術とかスキルとか言われるものはそんな甘くない。資格をとると自分のものになった気持ちになるが、それも気のせいだ。
一度、到達したから終わりというわけではない。終わりをつくるのは、自分のものなったという慢心で、放ったらかしにすれば、磨いてきた技術はすぐに荒廃する。
技術や知恵とともにあるには、今日もつづけることしかない。自分を更新しつづけるには、今日も、練習に励むしかない。
足りないのは、練習だ。学生みたいに勉強しつづけて、部活みたいに練習しつづけることだ。
そんな風に生きたら、今日はもっと楽しくなるんじゃないかな!今ここの練習は苦しいけど、練習を思い返すと楽しかったりするのは不思議だよね。
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