苦しみに食われるか、苦しみを食らい尽くすか。③[242/1000]

毒を食うか食わらないかは自由だけれども、毒を食らいすぎて死んでも自己責任だ。

 

ああ馬鹿だ。これまでも毒を自分から食らいにいって何度も死んできた。そして今度もまた、毒を食らいに行って死にそうになってる。

呆れるほど、経験から学ぶことのできない。匙加減も分からぬまま毒を食って、苦しくてどうしようもなくなる。苦しみから逃れたくて、すべてを放棄したくなるのは、馬鹿としかいいようがない。ただ、毒を食らいに行こうとする姿勢だけは認めてやれないか。

 

弱い人間は淘汰される。厳しいが自然界とはそういう成り立ちじゃないか。サバンナにいる野生動物に限らず、人間の文明だって本当はそうだ。弱いものは強いものに強奪され、飢えて、辱められて、殺される。病気にしたって、病原菌が身体を蝕むとき、強い人間は生き残って、弱い人間は死ぬ。

生きる保証があって、平和で、誰もが人権を持っている社会に見えるが、この厳しい自然界の掟は、宇宙が始まってからずっと何も変わっちゃいない。社会がどれだけ平和と清潔を装ったとしても、この宇宙の毒と自然界の淘汰がなくなったわけじゃない。

 

しかし、自分のことばかり考えてちゃならない。ああ、友よ。お前はもっと苦しい思いをしているんだろう。お前はもっと孤独なんだろう。そんな苦しみをひたすら耐えて、蹴散らして生きているんだろう。情けねえ。苦しいが、この苦しみをなんとか吸収できないか。この毒を全身に浴びながら、醜くも笑って、乗り越えられないか。苦しみを認識せよ。誤魔化すな。食われるな。そして自分から食らい尽くせ。人間として生きることを望むなら、それしかこの自然界を生き残る道はない。

 

 

苦しみを食らい尽くすとは、すべての苦しみを毒とみて、毒を体内に吸収し、毒を自己化すること。

毒を毒だと認識できていない状態が、いちばん不味い。なぜなら、”毒を吸収し自己化する”と心に決めても、毒だと認識できなければ、吸収しようとする意志が働かないからである。毒に侵されているのに、毒に侵されていることに気づけなければ、身体は蝕まれていく一方だ。生きることの”苦しみ”が日常化しすぎていて、毒だと気づくことすら難しくなっている。消毒思想に陥るほど、この罠にハマりやすい。

 

消毒思想と馬鹿にしているけれど、他人事じゃないぜ。楽をしたいと思うとき、肉体は毒を見て見ぬフリをする。毒に気づけなくなる。

気づいていないようだけど、孤独も毒である。一人で過ごす時間は、ある見方では気楽に見えるかもしれないが、孤独も誤魔化さなければ、自分を殺しにかかる。一人が楽だなんてとんでもない。それは孤独の毒性を誤魔化してるだけだ。孤独は誤魔化さなければ、本当に苦しい。

友に会いたい。しかし、そんな情けない姿など見せられるものか。遠くの地で運命に立ち向かっている友と、いい男になると誓ったあの日を思えば、情けない姿などあっちゃいけない。殺しにかかってくる孤独に食われるのじゃなくて、食らい尽くさなければならないという気概をもって、孤独に立ち向かわなければならない。

 

文明は毒だらけだ。人間らしく生きようとすれば、基本的に毎日、毒に触れている。ただし、毒を認識したくない(楽をしたい)と思えば、毒がないような優しい世界に生きられる気がしている。違う。今日も、今この瞬間も、人間として生きようとすれば、世界は毒だらけだ。苦しみに満ちている。ああそうだ。だから現世など、地獄だと言うのだ。地獄だと認めるのは恐ろしいが、毒だらけの地獄の中を生きているのだ。

どこにいようと、なにをしようと、誰といようと、世界は毒に満ちている。この毒をまずちゃんと認識すること。認識すれば、毒に食われる自分に気づく。それに気づいて、毒を食らい尽くす側にまわるんだ。食って、吸収して、自己化して、強くなれ。毒を食った分だけ、強く、人間らしくあれると信じて。

 

精神修養 #151 (1h/309h) #152 (2h/311h)

食うか食われるかの世界。瞑想も同じ。規律正しく、座り続けることは、肉体にとっても精神にとっても毒である。だからこそ、じっと座り続け、苦しみを食らい尽くすことで、初めて修行になる。必要なのは、「必ず食える」と信じることただ1つ。全身で受け止め、この苦しみをエネルギーを転化させていくこと。規律を始めとして人間らしいことは必ず苦しい。だからこそ意味がある。だからこそ、毎日続ける。

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