一人で生き、一人で死ぬ覚悟がなければ、魂と信念を貫き通すことはできぬ。そう生きたいと願っても、願うばかりで覚悟がなければ、どこかで必ず現世に迎合する。たちまち肉体は物質観に取り込まれ、絶対的な信条は崩れ去る。保守を謳う政治家が、保守になりえないのはそのためである。弾丸に当たって死ぬ覚悟がなければ、永遠や魂といったものは、息をすることができないのである。
卑怯な政治家を非難することも同じである。一人で生き一人で死ぬ覚悟がないために、他人の非を責めることしかできぬのである。もし、覚悟と自責に生きるなら、自らが苦悩しているはずである。現世との相克に苦しみ、己の弱さを恥じるなら、己にそんな資格はないと知っているはずである。自分という存在もまた、弾丸の飛んでこない安全な場所で胡坐を組んでいるだけだと知るからである。恥じて、悔いて、再び自らを戦いに駆り立てるはずである。
2024年7月、アメリカのトランプ氏が選挙集会の演説中に、右耳を銃撃されたことがあった。警護に支えられながら立ち上がり、拳を突き上げて「戦え」と叫んだことは、多くの人間を痺れさせたにちがいない。私もまたその一人であった。死を前にしても突き進もうとする姿は、人間の魂そのものじゃないか。生の衝動に振り切れ、物質主義となった現代において、はじめて人間の姿を目の当たりにしたようだった。国も人種も立場も異なる人間であろうと、同じ人間、誰が劣りもうすやである。雄々しく、力ある人間の姿を、死ぬまで追い求めるのである。
2025.1.19