あなたがたが、せめて動物として完全であったら、とわたしは思う!だが、動物であるためには、無邪気であることが必要だ。
わたしはあなたがたに、官能を殺せとすすめるだろうか?いや、わたしは官能の無邪気さを知れとすすめる。
わたしはあなたがたに、純潔をまもれとすすめるだろうか?いや、純潔は、ある種の人々には美徳だが、多くの者には、ほとんど悪徳なのだ。
ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」
信仰とは非日常性が日常を超越する力である。信仰が弱まると、非日常性は人生の舞台から追い出され、日常的、物質的価値に重きが置かれるようになる。門松やしめ縄、日の丸が玄関に掲げられた正月は、国全体が一つとなり、歳神様を迎え、非日常が日常を超越するひとときであった。正月三が日が過ぎると、各々は日常へ戻る準備をはじめる。そこに明確な境界線はないはずである。再会する人間に”明けましておめでとう”と言葉を交わす瞬間は、まだ新しい。知らず知らずのうちに、新年の非日常性は完全に薄れ、日常の上で生活をおくるようになる。
まるで黄金に輝く早朝の日の出が、昼間になるとその姿を隠してしまうように、神秘は街々の騒音から離れた場所に秘められるものである。私が早朝に旅立つのは、わたしの仕事が非日常を待ち望んでいるからである。目が醒めぬうちに…機会を逃せば、非日常へ帰ることも、日常に着地することも叶わず、宙ぶらりんとなる。己の力が盤石ではない者にとって、街に降りることはそうした危うさを孕んでいる。だが、怖れることはあるまい。信じ、信じればこそ、おれたちはいつでも突き抜けられる。
2025.1.4