宇宙は各々の生命が、力に生きた結果を調和と呼ぶ[865/1000]

私もまた堕落した現代人だと言うのは、力を信仰しながらも、いっぽうで無力に敗北することを心のどこかで認めているからである。樹を倒すにしても、全てをノコギリでこなすことはついに諦め、文明の賜物であるチェーンソーを使うようになった。力仕事をして疲れ果てたとき、そのままでは無力に陥りそうになるから、熱いコーヒーを飲んだり、小豆の和菓子を食べたりして、精神に活力を与えている。

現代人が堕落しているというのは、力を得るために必要な享楽が洗練されすぎて、一昔前の人間が当然に行っていた物事を、同じ条件でこなすことができなくなっているからである。たとえば、大正初期まではチェーンソーのような電動器具はなく、鋸と斧で樹木は倒されていたが、同じことを現代人にやれと言っても、「そんなことは無理だ」と無力感に浸る。九州から東京まで歩けと言われても同様である。昭和は現代といえども、今よりずっと力があった。当時生まれた映画や芸術を、現代人が愉しむには力がいるし、政治にも社会にも熱気があった。力なく無力になれば、そもそも見向きもされないのである。

 

力とはゆっくり膨れ上がるものであり、無力とは慌ただしく収縮していくものである。力に従って生きることを願っても、人間、無力に直面せざるをえない。そうして無力に敗北を喫するとき、人間としての屈辱と恥をおぼえなくてはならない。

力と力が衝突したとき、戦争が起こるやもしれぬと数日前に書いたが、私が信じる宇宙とは、各々の生命が力のために生きた結果を調和と呼ぶのである。その過程で破壊が生まれたとしても、それは宇宙の意志であり、無力の自殺ではない。今日問題とされる、環境破壊、たとえば森林破壊と太陽光パネルの設置などは、無力の自殺といえよう。

 

そうして無力に直面したとき、恥を忘れて無力に逃避するのではなく、素朴な物事から力を賦活することが私の考える人間の救済である。これについては、過去にも散々書いてきたことだが、これより力の労働、肉体労働に戻るゆえ、日を改めてまた書く。

 

2024.11.1