冷たい秋雨に打たれながら、闇に潜ってブロッコリーを穫っている。手が冷たくて痺れる。服が下まで濡れて、身体が芯から冷えている。セテムブリーニ氏だったら、これを人間の屈辱だと憤るだろう。身体が冷えてどうしようもなくなると泣けてくる。われわれの存在本質は熱である。ゆえに、熱を奪われつづけると、心まで弱気になっていく。たかが雨に負けてどうすると、踏ん張りをきかす。豪胆なストア派に身を震わし、精神を熱源に心を温める。われわれは肉体からのエネルギー供給が断たれても、第二のプールがある。天のはるか彼方、垂直方向からエネルギーを受容する。
久しぶりに火を焚いた。濡れた服が蒸気をあげてみるみる渇いていく。文明が自然を克服した第一歩だ。冷え切った手を焚火にかざしていると、火があるかぎり人間は大丈夫であることを思い出す。昨日までの俺は、八ヶ岳のクマたちと同様に、せまりくる冬に怯えていた。だが、人間は火を生み出した。私を含め大勢の人間は、マッチがなければ自力で火を起こすこともできないが、ずうずうしくも当たり前の顔をして、先人の叡智に連なる。寒さに怯えることなく、快適に越冬する。
動物と人間のちがいは、火を扱うことにある。火は信仰だ。近よれば濡れた身体は温まる。同時に魂は醒まされる。祭りや儀式のときは炎を囲っただろう。仏壇に手を合わすときも蝋燭に火を灯す。われわれは、燃え盛る炎を美しいと感じる。われわれの本源である熱は故郷に絶えず燃えて、その現象体である火を通じて、現世と霊界は繋がるのではなかろうか。
それにしても寒くなった。早く家を完成させて、だれかと温かい鍋でも囲えたらなあ。
2024.10.5