死にたいかと問われ、死にたいと答える者などいるものか。生きたい。生きたいが、死んで救われるものもあるということだ。国のために散っていった特攻青年たちは生きたいと強く願っただろう。そうでなくては。家族を愛し、この世のすべてと、命をかけがえないものだと信じているから、それを擲つ代償に同等の質量を得る。人間の魂といわれる暗黒の力。行動の結末に生きたとき、われわれが手にするものは、肉体という名の物質である。これは、あまりにもまだるっこい。
これは似ているが、厳しい労働を終えた一日の最後に、美味い酒を飲んだり、湯船に浸かったりすることで、肉体はこの世に蘇る。労働に死んで蘇る。死んで蘇る。この繰り返しのなかに営まれる生活は百姓的である。彼らは労働のうちに死ぬことを決めている。休みをとって旅行に行くことよりも、働くことを好く。一日のエネルギーに燃え尽きて、灰のなかから不死鳥のごとく蘇る、その瞬間に、最高の充足を得るのである。
金のための労働であれば、少し事情は変わる。厳しい労働という行為は同じでも、行為の結末に着地するのは、生きることである。無論、貯めた金で大業を成すとなれば話は別である。だが、金の安心を得るためだけに惰性的に金のために働きつづければ、生活は安定するも虚無に堕ちる。毎日が仕事に追われ、虚無に気づく暇もないが、定年を迎えて仕事を終えたときに、生きていることに絶望する。
もし病気が人間を高尚にするのなら、それは行為の結末に死を意識させるからであろう。大きな病気を患ったことを境に、生き方を変えるようになった話は珍しくない。虚無に生きてきた人間が、もし余命を宣告されたなら、自分のほんとうの気持ちに気づけるかもしれない。なにか、大きなもののために命を捧げたい。国のため、愛する人のため。そうして少しでも立派な人間として死ねたなら、この世に生まれた甲斐があったといえるかもしれない。
2024.10.3
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