虚無主義とは―虚無に苦しむのなら[835/1000]

行動の結末に生があるとき、人間は虚無に堕ちる。生きとし生けるものにとって、現在の行動のはるか彼方に据えられた結末は死であるが、生の舞台の光が眩しくなるにつれ、現在の行動は死と一直線に繋がらなくなる。80歳、90歳まで生きることが当たり前である今日では、死を想うことは何気なく繰り返される日々のために、後ろへ後ろへと延期される。

 

行動の結末に死ぬことができなかったとき、つまり、生きてしまったとき、人間は静かに絶望する。仕事一筋だった人間が定年退職を迎え、急にやることがなくなって、鬱になることが日本では問題視されている。彼らは生きてしまった。ゆえに、気の毒だ。何十年も、身を粉にして会社に己を捧げたにもかかわらず、その果てに、華々しく散ることは叶わず、まだるっこい生活に放り出されてしまった。

 

そんなことは、今日の常識に照らしてみれば、当たり前だと思われるだろう。実際、忍耐強く働く人間にとって、老後の余生は目標地点の一つになっていることもあろう。しかし、定年を迎えてみれば、ほんとうに己が渇望していたものは、もっと別のものであったことを知る。欲望は死ぬことを口にしない。ゆえに、魂の声を聴かぬものは、死が盲点となる。

 

これまでにも何度か書いてきたとおり、私は二十代半ば、虚無主義に堕ちた。人生を問いながら旅をしていた私は、最後の望みを託し、オーストラリアをヒッチハイクで横断することにした。砂漠を見て、野宿をし、安いパンをかじって、ボロボロになりながら、ついに横断を達成した。ゴールドコーストから昇る朝陽は美しかったが、同時に私は、まだ生きていることに絶望し、2年に渡る引きこもりに入る。

 

行動の結末に死を据えること。虚無主義を抜け出すには、今日の行動が、遠く近い死へと、繋がっていく軌跡を己が知ることである。俺はこう死ぬのだと決めて、現在がその途上にあることを知ることである。私は虚無に潰され、無気力に引きこもった過去があるが、今ではそのおかげで、次に進むことができたと考えている。虚無に苦しむのなら、そのまま苦しむことだ。地に堕ちたのなら、今度は上に登ろうとせず、暗い方へ、地獄のほうへもがいてみることだ。ここに人間の底力が生まれる。

 

2024.10.2

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